【歴史シリーズ】実は奥深い「駒込」の由来。謎多き発祥のあれこれ

「駒込」というエリアを想像すると、何が浮かんできますか?

山手線の停車駅でありながら、どこか地味な印象の駒込。大きな商業施設や映画館などのエンタメ施設もないため、用がないと降りない駅の1つかもしれません。

けれども駒込駅周辺は、ソメイヨシノやツツジなど美しい花々にゆかりのあるエリアとして有名です。歴史が息づく緑豊かな庭園や染井霊園のソメイヨシノ、JR駒込駅線路沿いのツツジなど、可憐な花々を愛でるスポットがあちらこちらに点在しており、都心の利便性を手に入れながらも安らぎの時間が過ごせる環境が魅力です。

今も昔も穏やかな空気が流れる駒込には、いったいどのような歴史が刻まれてきたのでしょうか?駒込の歴史を紐解いていくと、実はさまざまな「発祥」の由来となっていることがわかりました。今回はそんな知れば知るほど奥深い「駒込」の歴史について探ってみたいと思います。

駒込とはどんなところ?

駒込駅周辺は、豊島区、北区、文京区と3つの区が隣り合わせになっているエリア。大きな商業施設はないものの、市街地と住宅地のバランスがよく、池袋や新宿などへも乗り換えなしで気軽に行ける距離感は一度住んだら離れられなくなるかもしれません。

自然環境に恵まれながらも、下町の食を支える活気ある商店街は、この街で暮らすのに心強い存在です。都心の利便性を享受しながら、穏やかな住環境と下町風情を感じたい、そんな方にピッタリのエリアと言えるでしょう。

駒込の名前の由来とは

駒込の由来は諸説ありますが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が放った「駒込みたり(混みたり)」が有名ではないでしょうか。これは東征(東方の敵を征伐)の途中、味方の軍勢にたくさんの馬がつながれているのを見て思わず出た言葉なのだとか。このときの「駒」とは馬のことを言います。

また当時馬は日本に生息しておらず、高麗から大量に輸入されたことにより、お世話役の高麗人もたくさん来ていたことから「高麗が籠める(こめる)」が変換されたとか、原野に多くの馬が群がっている様子が由来となったなどと言われています。いずれにせよ、この時代に珍しかった「馬」が由来となっているようですね。

天下取りにつながった縁起の良い道「日光御成街道」

日光御成街道は徳川将軍が日光東照宮に徳川家康の霊廟(れいちょう)に社参する時に使用された街道で、本郷追分(東京都文京区)から、幸手宿(埼玉県幸手市)の手前で日光街道に合流するまでの5宿12里(約47キロ)の道のりをいいます。

なぜ「日光御成街道」と名付けられたのか、その経緯についてみていきましょう。そもそもこの道は奥州へ通じる幹線道路として利用されており、鎌倉時代には「鎌倉街道中道(かまくらかいどうなかつみち)」と呼ばれていたようです。

そして時代が移り慶長5年(1600)、上杉征伐のために会津をめざしこの道を北上してた徳川家康。小山宿(栃木県小山市)で、家康の留守中に石田三成が挙兵をあげていることを知り、一旦江戸城へ戻り1カ月間お城にこもります。

実は家康はこのとき石田三成軍政の大名へ、家康の味方をしてもらえないかと各方面へ手紙を書いて根回しをしたそうです。そして見事、関ケ原の合戦で勝利し、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きます。

その後家康の遺言により日光東照宮に祀られたことから、日光社参は歴代将軍の重要な行事となったのです。こうして天下取りにつながった縁起の良い道として天明5年(1785)以降「日光御成街道」と呼ばれるようになったと言われています。

大名も農民も苦しめる?!「日光社参」

こうして日光社参が行事化されると、毎回かなりの大金がつぎ込まれたと言われています。8代将軍吉宗の折りには、大名や旗本、荷物を運ぶ人足(にんそく)だけで36万人、それに馬が32万頭と想像を超える人や馬が駆り出されます。

また武士たちは自腹で参加し、農民や商人は1回の通行のために道をならしたり、街路樹を整えたり、沿道の家屋については修繕などもなされたりと労力も、お金もかかるため、武士も農民も大変な思いで参加していたようです。そうして吉宗が社参につぎ込んだ金額は当時の20万両以上、今でいうと140億円もの金額になったといわれています。

駒込が発祥?!「一富士二鷹三茄子」

今年の初夢はどんな夢を見ましたか?日本では昔から新年の最初に見る夢を「初夢」といい、その初夢で縁起が良いとされているのが「一富士二鷹三茄子」ということわざ。由来には諸説ありますが、実は「富士山」「鷹」「茄子」を表すアイテムがすべて駒込に精通しているのをご存知でしょうか?ここでは駒込にまつわる「一富士二鷹三茄子」についてチェックしていきましょう。

駒込の富士山「駒込富士神社」

現在の駒込駅から南下すること徒歩8分にある「駒込富士神社」は、富士山に見立ててつくられた富士塚の上に祀られた神社です。通常、富士塚というと、富士信仰の集団(富士講)が土を盛って人工の山を作り、富士山から運んできた溶岩で固めた築山が主流ですが、こちらの富士塚は、もともとあった古墳の上につくられているようです。

とはいえ他の富士塚と同様に、富士山から運んできた溶岩が敷き詰められ、本物の富士山さながらの急勾配の階段もあります。富士山は江戸時代に絶大なる人気を誇っていたため、山開きがおこなわれる6月1日には、駒込富士神社もたくさんの人でにぎわっていたそう。その風習は今でも引き継がれており、6月末から7月頃にかけての山開きの際には、夜店も出てにぎわいを見せるそうですよ。

都立駒込病院の下に眠る「鷹匠屋敷跡」

駒込には将軍が鷹狩を楽しむ鷹場があり、鷹を放つために飼育、訓練をおこなうための施設「鷹匠屋敷」がありました。元々徳川家康が好きではじめられた鷹狩ですが、4代目家綱のときには徐々に回数が減り、5代将軍綱吉は「生類憐みの令」により、鷹狩を禁止していたとのことで、しばらく使われていなかったようです。そして8代目将軍吉宗の際に久々に鷹狩が復活し、その時に使用されていた「鷹匠屋敷跡」に現在の都立駒込病院が建てられています。

さらに驚くことにこの都立駒込病院の敷地は、吉宗の鷹匠屋敷跡の下に縄文時代の貝塚も眠っていたことが発見されている、とても神秘的な場所だったんです。現在は動坂遺跡として、動坂貝塚記念碑が置かれています。駒込を訪れた際には、土の下の歴史に想いをはせながら訪れてみてくださいね。

「なす」は駒込の名産物

急速に人口が増え、深刻な野菜不足に悩まされていた江戸幕府では、江戸城内でも野菜をつくっていたという記録があります。そのため、江戸から近い駒込では、各種野菜の栽培が盛んになります。

とくにナスは良質なものができたことから「駒込ナス」として駒込の名産となり、江戸の庶民にも親しまれていたそうです。このように「駒込富士神社」「鷹匠屋敷」「駒込名産のなす」と3つ揃えると確かに「一富士二鷹三茄子」ですね。新年でなくとも駒込の「一富士二鷹三茄子」巡りをすることで何か良いことが起こりそうな気がします。

「ソメイヨシノ」を植えたのは誰?

春になると、あちらこちらで見かける桜の木の代表格「ソメイヨシノ」。桜自体は数百万年前から自生していたと考えられていますが、ソメイヨシノの歴史はまだ浅く、江戸時代の中期から末期に園芸の盛んだった駒込の染井村で誕生したと言われています。ソメイヨシノは、人の手によってつくられた桜で、遺伝子研究により「オオシマザクラ(大島桜)」と「エドヒガン(江戸彼岸)」の交雑種であることがわかっています。

当時は、染井村の植木職人が桜の名所として有名だった奈良県の吉野山にあやかって「吉野桜」として売り出したそうです。染井村の吉野桜は、他の桜に比べ成長が早く樹木が大きく育つこと、花も大きく見栄えがいいことなどから人気に火がつき、あっという間に日本全国へ広がっていったようです。

明治33年、上野公園の桜の調査をしていた藤野寄命は、吉野桜は山桜で染井村の吉野桜とは性質がちがうことを発見します。それから吉野桜は山桜と間違われないようにと地名の染井を入れ「ソメイヨシノ」と命名されたそうです。今や桜と言えば「ソメイヨシノ」と呼ばれるほど、日本に咲く桜の7〜8割はソメイヨシノだと言われています。

ところがこれほどまでに日本に広まったソメイヨシノは、ほんの数本の原木から接ぎ木などで増やされた「クローン桜」ということをご存知でしょうか?

クローンだからこそ、同じ環境下における桜の開花時期も同じになるため、予測も立てやすいようです。接ぎ木だけでこれほどまでに日本全国に広まったと考えるととても感慨深いですね。さて、ここまで日本の桜を代表する品種となった、「ソメイヨシノ」を手掛けたのはいったい誰なのでしょうか?定かではありませんが、当時染井村で植木職人をしていた伊藤伊兵衛政武(まさたけ)ではないかという説が濃厚なようです。

考えられる理由は4つ

  • このころ政武さんは8代将軍吉宗に気に入られ将軍家に植木職として出入りしていたこと
  • この時代に植物の交配技術をもった植木職人は政武さん以外に考えられないこと
  • 幕府直轄の薬草園(現在の小石川植物園)の入口近くに当時名もない雑種の桜(現在のソメイヨシノ)を植えることができたのは、政武さん以外に考えられないこと
  • 将軍吉宗から声がかかり飛鳥山の桜を植えたのも政武さんだから

などさまざまな背景から、政武さんではないかとの憶測がありますが、どこにも記述が残されていないため、定かではありません。では、染井村伝説の植木職人伊藤伊兵衛家とは、どのような方々だったのでしょうか?

ソメイヨシノの父、伊藤伊兵衛

駒込の歴史を語る上で、この方の名前を語らずにはいられません。前項でお伝えした「ソメイヨシノ」を創り出し、世に広めたお方ではないかと言われている「伊藤伊兵衛」さんです。

「伊藤伊兵衛」さんはお一人ではなく、現在の染井霊園近くにあった津藩藤堂家下屋敷・抱屋敷に代々出入りする植木屋さんです。初代の伊兵衛さんは、庭のお掃除をする「霜除(しもよけ)」という役目を担っていました。

中でも革命的な園芸ブームを起こしたのが、三代目伊藤伊兵衛三之丞(さんのしょう)さんと五代目伊藤伊兵衛政武(まさたけ)さんです。三之丞さんは藤堂家で不要になった植木を持ち帰り自分の庭で育てたそうです。とくに藤堂家三代藩主藤堂高久は、庭の花壇を季節ごとに植え替えて楽しむことが趣味だったそうで、それにともない三之丞さんも多くの植物を扱うようになり、植木屋さんに転業したと考えられています。

中でもツツジを得意としており、「キリシマツツジ」にあやかって「霧島屋」という名で活動し、ツツジ以外にも楓や椿などたくさんの植物を栽培し、植物などの原種を収集する「種樹家」としても有名になったそうです。さらにたぐいまれなる探求心で自ら接木や挿し木などを研究し、栽培のノウハウを広めるためにツツジ173種、サツキ161種の品種と管理方法の図入り解説書「錦繍枕(きんしゅうまくら)」を発刊。

また「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)」では、江戸園芸のバイブルというべき書物を発刊し、花木類のボタンやサザンカ、サツキ、草本類ではユリやラン、アサガオなど、品種の特徴から植え替え、培養土、肥料などについて草花の種類別に紹介しています。

江戸にオープンガーデン?!園芸界に一大ムーブメントが発生

さらにその意思を受け継ぎ活躍したのが、五代目の伊藤伊兵衛政武(まさたけ)さん。政武さんは、時代の流れを先取りし、世の中の情勢を的確にとらえて商売に生かしていたと言われています。

驚きなのが、この江戸の時代につくられた、伊藤伊兵衛の庭にあるオープンガーデン。伊藤伊兵衛家の庭一面がキリシマツツジで満たされており、敷地の入口から奥までが220m、幅も100mある大庭園だったようです。それがわかる資料が豊島区立郷土資料館に所蔵されている「武江染井翻紅軒霧島之図」。

これは花見遊覧客向けの「案内チラシ」のようで、ブロックごとの案内書きやどこにどんな植木や池があるか記されています。そこには草花を見ている人や宴会をしている人など、お花見や遊山感覚で訪れている人々の絵が描かれており、この絵を見ることで、街の人が自由に出入りできるよう「オープンガーデン」として庭を開放していたことがわかりました。

この時代にして、人為交配により新種を作ったり、ボタンの品種改良がおこなわれていたなどの記述もあり、1760年頃までは、交配の分野においては伊藤伊兵衛の独断場だったのではないかと言われています。こうした伊藤伊兵衛家のさまざまな活動により、染井が園芸の街として益々賑わっていきます。

政武さんの活躍は、徳川将軍吉宗の目に止まり、江戸城内への立ち入りを許された上に、当時珍しかった「トウカエデ」も吉宗から拝領したのだとか。また当時吉宗が推し進めていた、国産生薬の開発と増産による金銀流出の防止策に沿うかたちで、薬草を中心とした書物「広益地錦抄(こうえきじきんしょう)」も発刊しています。こうしてさまざまな功績を残し、染井村はのちに「ソメイヨシノの街」として知られていったのです。

そもそも駒込で園芸店が流行ったのはなぜ?

駒込で園芸店が爆発的人気を博したのは、もちろん伊藤伊兵衛家の活躍がありますが、他にも3つの要因が考えられています。

1つ目は、日光御成街道が通る駒込周辺は地方や農地に出るための交通の要所であったため、誰もが立ち寄りやすかったこと。2つ目は、幕府の政策として、大名屋敷や寺院の庭園化が推奨されていたこと。3つ目は、明暦の大火後、街道沿いに大名の下屋敷が多く建てられたこと。

このような時代の背景から、さまざまなニーズをいち早くキャッチし、商売として成り立たせたのが、伊藤伊兵衛さん一族ということでしょうか。

その後植木屋が衰退していったのはなぜ?

これほどまでに盛り上がった園芸ブームにも終わりのときが訪れます。江戸の倒幕後、不要となった武家屋敷は、財閥等に払い下げされたり、政府の軍用地となったり、公園や官公庁に転用されるなどし、消滅していきます。

そこへ起きたのが大正12年の関東大震災。そのとき被災した植木屋さんがまとまって新鮮な水と空気、広い土地を求めて大宮へ移転。その後大宮盆栽村を形成したそうです。また明治の文明開化から高度経済成長の波が訪れ、植木屋さんにとって広い土地を保有しながら手間のかかる植木業を続けていくのは、とても大変なことでした。

そして都市形成による売地や建物建設の方がはるかに収入を上回ることも周知され、衰退の要因になったと考えられています。こうして昭和初期にはすっかり衰退し、今の駒込にはビルやマンション、住宅が立ち並び、植木屋さんの姿は面影すらなくなってしまいました。

「駒込」は文化的要素と下町要素が調和し心地よく暮らせる街

駒込の魅力はこうした歴史深い文化の中で、都心とは思えないほどの静かな街の空気感ではないでしょうか。六義園や染井霊園など美しい緑や花々を愛でる習慣が今も息づいていて、住む人やここに訪れる人々の心を穏やかにしてくれます。それでいて活気ある下町風情が味わえるのもこの街の特徴です。

駒込駅東口を右側に出るとアザレア通り、右側に出ると駒込さつき商店街(駒込銀座)、霜降銀座商店街、染井銀座商店街と個性の異なる商店街が一直線につながっています。ここに来ればあちこちへ移動することなく、街歩きを楽しみながらゆっくりとお買い物ができるんです。

駒込には、複合商業施設など大きなショッピングモールなどはありませんが、これぞ庭園や美しい花々の景観を楽しめる醍醐味です。オシャレなカフェやパン屋さんと並び、商店街が開業する前からの昔ながらのお店もちゃんと残っています。都心にいながらにして文化的要素と下町要素、どちらも取り入れながら心地良く暮らせる街、それが「駒込」エリアの特徴と言えるでしょう。

駒込といえばここ!

たくさんの魅力が詰まった駒込には、オススメのスポットが沢山あります。ここではその中から、とくに一推しの2箇所ご紹介します。

六義園

江戸の二大庭園のうちの1つ「六義園(りくぎえん)」は、日本に36カ所しかない国の特別名勝に選定されている、風光明媚な庭園です。春に咲き誇る巨大なしだれ桜、初夏にはツツジやサツキ、秋の真っ赤に染まる紅葉と四季折々に楽しめるスポット。

この土地は元禄8年(1695)、五代将軍綱吉から当時の側用人であった柳沢吉保が与えられた下屋敷で、そこに柳沢自身が設計、監督し7年の歳月をかけ「回遊式築山泉水庭園」を造りあげました。六義園は文芸好きの柳沢の趣向に合わせ、「和歌」に詠まれた名称や和歌山県の「和歌の浦」の景勝など八十八の景観(現在は32カ所)にちなんだ庭造りが特徴です。

とくに「渡月橋(とげつきょう)」は六義園の中でも人気の絶景スポット。池に浮かぶ2枚の大岩でつくられた橋はダイナミックでありながら、どこか情緒があります。「渡月橋」という名称は「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影そさひしき」という和歌にちなんで、水面に浮かぶ夜の月の情景をなぞって付けられたそう。

六義園には、将軍様が日光御社参りの折りに、ご休息をされたとの記述もあります。しかしながら柳沢吉保記没後は年々利用頻度が減っていき、荒れ果てたところを修復したり管理しながら維持していたところ、明治になり政府に上地されてしまいます。

その後明治11年に三菱グループの創始者岩崎弥太郎が手にいれ、長男久弥の本邸として利用された後、昭和13年4月東京市に寄贈。同年10月に公開され今日にいたります。六義園には、「ソメイヨシノ」や「ツツジ」など駒込の地にゆかりのある花々が豊富に扱われています。

ぜひ、それぞれ見ごろの時期をチェックして訪れてみてくださいね。

東洋文庫ミュージアム

歴史好きの方なら、ぜひ訪ねていただきたいのが、「東洋文庫ミュージアム」。大正13年(1924)に三菱財閥の三代目当主岩崎久彌氏が設立した東洋学における世界有数の研究図書館に併設されたミュージアムです。その蔵書数は100万点にもおよび、そのなかには国宝が5点、重要文化財が7点含まれています。

最大の見どころは、”日本一美しい本棚”と呼ばれる「モリソン書庫」です。床から天井まで美しく敷き詰められた圧巻のコレクションは2万4千冊にもおよび、現在の価値で70億円にものぼると言われています。また建物にもさまざまな趣向が凝らされており、鑑賞後のカフェへとつづく「回顧の路」や「知恵の小径」なども見過ごせない楽しみの1つ。

またここだけのオリジナルの特徴が1つ。アート作品には館員さんによる手書きの解説が添えられているそうです。それがよくあるお堅い文章ではなく、ちょっとユニークで思わず「クスッ」と笑ってしまうほど。ミュージアム初心者の方も思いがけず楽しめるようですよ。本やアート好きの方もそうでない方も一度は訪れてみたいおすすめのスポットです。

「駒込」で日本庭園を望める暮らしを叶える

駒込の魅力はなんと言っても、山手線沿線で暮らしながら、四季折々の色鮮やかな花々を見渡せる環境にあるでしょう。便利だけど穏やか、静かだけど楽しい、そんな暮らしが叶えられます。便利な都心エリアに住みたいけど、美しい緑に囲まれて暮らしたい方にピッタリのエリアです。

そんな駒込でゆっくりと歴史探索したい方には、敷金不要・家具家電付きのマンスリーマンションでお試し住みはいかがですか?お寺巡りも食べ歩き散策も、時間を忘れて楽しめますよ。お気に入りの場所を探しながら、じっくりと駒込の住み心地をご堪能いただけます。生活必需品はすべて揃っていますので、どうぞボストンバッグ一つでお越しください。

>「駒込」を実際に歩いてみました!暮らし実感レポートはこちら

この記事を書いた人

颯そら/Webライター

元不動産会社出身の不動産ライター。双子女子と年子の兄の3人の子育てをしながら独学で宅地建物取引士の資格を取得。
現在はフリーライターとして主に関東エリアの紹介記事やインタビューなどのカメラ取材も手がけています。
今ハマっていることは子どもの空手のサポート。親子で研究と改善を繰り返しながら笑ったり、怒ったり、時には涙を流したりと四苦八苦の日々。でもきのうより今日、今日より明日とめざましく成長していく子供の姿に感動しています。趣味は旅行、温泉めぐり、画像や動画編集(勉強中)。