【歴史シリーズ】九州の玄関口「博多」の由来や歴史。住みやすさ、魅力をまとめて紹介。

九州の玄関口といわれる博多。中世から自治都市として栄えた商人の町です。地下鉄で天神にも福岡空港にも5分程度でアクセスでき、ひと通りのものが揃うこの街は、交通面に限らずあらゆる利便性が高い街です。

今回はこの博多の街がいかにして発展してきたのか、博多の名前の由来やどのような経緯を経て今があるのかを振り返りながら、歴史や魅力を紐解いていきます。

博多とはどんなところ?

博多は交通アクセスの幅が広く、地下鉄や路線バスに加え、新幹線やJR、高速バスも発着する交通の要衝。2023年春には地下鉄七隈線も延伸します。JR博多シティやKITTE博多のオープン以降は商業施設も増え、買い物施設や飲食店などもますます充実しています。

博多の地名の由来とは?

「博多」の語源は、「土地が博(ひろ)く、人・物産多し」という言葉から「博多」とする説、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたことから「羽片」(鶴の墓は太宰府市の榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちて「葉形」など複数の説があります。

博多の歴史・時代毎の移り変わり

知っているようで、長く住んでいる地元の人でも知らない街の歴史。「博多」の名前がはじめて歴史書に登場するのは、続日本記の759年のこと。博多湾沿いには日本最古の外交施設「筑紫館」が6世紀頃から存在していたようです。

それでは博多の歴史の移り変わりを時代毎に紐解いていきましょう。

古代(6世紀頃)から平安末期に鴻臚館が衰退するまで

当時の博多は、現在の博多湾に面する一帯を指すものでした。かつて博多港は「博多津」と呼ばれており、7世紀頃、博多津には「筑紫館(つくしのむろつみ)」という日本最古の外交施設が存在していましたが、やがて平安時代になると、同じ場所に「鴻臚館」として建て直されます。

鴻臚館では貿易が盛んに行われ、遣唐使や遣新羅使などの宿泊施設としても使用されていました。少し遡り、奈良時代の757年には櫛田神社が創建され、平安時代の806年には唐から帰朝した空海によって博多に東長寺が建立されます。

10世紀には藤原純友の乱が起こり、朝廷と藤原純友との争いで博多湾から太宰府へ侵攻。純友は太宰府を放火しますが、朝廷軍の小野好古が戦勝祈願の為、櫛田神社に素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)を勧請し、博多湾で激戦の末、純友軍の大敗で幕を閉じました。

11世紀になると、住吉神社や筥崎宮などの有力寺社や有力貴族による私貿易が中心となり、鴻臚館貿易は衰退。1047年には放火され、1091年、宋商人の写経を最後に文献からも姿を消しています。

日宋貿易により再び栄える博多。博多祇園山笠の起源も。

鴻臚館が衰退すると、博多はますます日宋貿易の拠点へと変化を遂げ、博多津は、中国の北宋や南宋の商人、神社仏閣や荘園領主などの私貿易で栄えていき、平安時代末期以降は外国人商人が行き交う国際都市となりました。

12世紀末には栄西が博多に「日本最古の禅寺」といわれる聖福寺を開山、13世紀には承天寺を開山します。この頃、饂飩や蕎麦、饅頭、お茶が日本に伝来し、博多が発祥という説が濃厚です。

あの平清盛も博多に人工の港「袖の湊」(そでのみなと)を開き、日宋貿易の中継地にしたと伝えられています。13世紀には疫病の流行がきっかけで、承天寺の開祖・円爾が木製の施餓鬼棚に乗って水を撒きながら町を清めて回り、疫病退散を祈祷したことから「博多祇園山笠」が始まったのだとか。

1222年には、博多の海に人魚が流れ着いたという記述があり、その骨とされるものが博多区冷泉町にある「龍宮寺」に所蔵されています。

鎌倉末期の元寇~南北朝時代・激動の博多の変遷

鎌倉時代末期、博多の町は1274年の文永の役と1281年の弘安の役で2度にわたりモンゴル帝国・高麗軍の侵略を受け、文永の役で博多の町は焼失。文永の役の後、再来に備えて築き上げたのが博多湾沿岸に約20km(西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎まで)にも及ぶ「元寇防塁」でした。

1度目の襲来で焼失してしまった筑前国一の宮の筥崎宮の再興にあたり、朝廷は異国降伏を祈願する為、亀山上皇によって「敵国降伏」の文字が扁額に記されます。その扁額は今なお筥崎宮の楼門に大きく掲げられており、その強烈なインパクトに驚く人も少なくありません。

亀山上皇は全国の神社に戦勝祈願をさせたといわれており、結果、本当に神風が吹いたかどうかは定かではありませんが、元軍が撤退したことは歴史的に知られるところです。元寇の後、13世紀末には現在の櫛田神社近くに鎮西探題が設置されます。鎮西探題は鎌倉末期、太宰府に取って代わり、九州統治の中心となりました。

1333年に南北朝初代天皇の後醍醐天皇が挙兵すると、博多の町は焼き払われてしまいます。やがて足利尊氏によって京都の六波羅探題が陥落すると、鎌倉最後の鎮西探題で博多の防衛にあたっていた北条英時から少弐氏、大友氏、島津氏などの武将達が一斉に離反。鎮西探題に攻め込み、やがて鎮西探題は滅ぼされました。

後醍醐天皇による建武の新政は足利尊氏などの離反によって2年で終わりを迎え、南朝と北朝2つの朝廷が立ち、争い合った南北朝時代の博多は、南朝の支持勢力が盛んでした。やがて九州に落ち延びた足利尊氏が南朝方の菊池氏を多々良浜の戦いで破り、九州のほぼ全域が足利方につくことになりました。

室町時代から戦国時代にかけての博多とは?

室町時代に入ると、博多は自治都市として栄えます。博多を含めた九州を統括する出先機関の鎮西探題がなくなると、それを踏襲する形で九州探題を設置。九州探題は李氏朝鮮との外交なども行っていました。

明から海賊の倭寇の討伐要請を受け、九州探題に任命された今川貞世が、大内氏と共に倭寇討伐に成功。日明貿易(勘合貿易)の開始に携わるも、讒言(ざんげん)によって失脚しています。

当時の博多商人は、日明貿易や日朝貿易に留まらず、琉球経由で東南アジアとの貿易にも関わるように。銅銭や日本刀、硫黄などを輸出し、博多商人は巨万の富を得ました。15世紀後半には、博多の町は大内勢力と大友勢力の配下となります。

応仁の乱の後、室町時代から戦国の世に移り変わると、博多の町は大友宗麟によって統治されるようになりますが、筑前国衆の筑紫惟門が大友宗麟に反旗を翻し、博多の街が破壊。この時、多くの商人は肥前国(現在の佐賀)に避難したようです。

元亀・天正年間、博多は比恵川(現在の御笠川)の氾濫も起こり、それを防ぐ為、大友氏によって大規模な治水工事が行われ、直接博多湾に流れ込むようにしました。

博多商人は戦国時代も活躍し、そのうちの1人である神屋宗湛の祖父・神屋寿貞(かみやじゅてい)が石見銀山を開発したといわれています。博多はその後も掠奪(りゃくだつ)と焼失が繰り返され、16世紀後半に豊臣秀吉が九州を征伐。当時博多を占領していた島津氏を降伏させました。

九州を平定した後、秀吉は筥崎宮に滞在し、千利休や神屋宗湛らを招いて茶会を開いたと伝えられています。荒廃した博多を本格的に復興させる為、秀吉は1587年に街の区画を定めて城下町を建設する「博多町割り」を行いました。兵火による焼石や焼け瓦を使って作られた「博多塀」もこの頃にできたものです。

町を袈裟の七条になぞらえ、七小路に面する町々を「流」(ながれ)とし、博多松囃子や博多祇園山笠といった祭事は、この流単位で催されています。櫛田神社の社殿はこの時に造営されました。

江戸時代の幕開けとともに福岡城の建設開始

関ケ原の合戦後に筑前国に封じられた黒田長政は、父である黒田如水と共に福岡城の建設を1601年から開始し、城下町を整えます。その後、商人が活躍する港町・博多と城下町・福岡の東西2つの街が競い合うように発展しました。

長政は、徳川家康からのシャム貿易の朱印状を商人に与え、藩の代わりに貿易を行わせます。1633年に鎖国令が発布されると、この時代に海外貿易を生活手段とする博多商人の活躍は急速に衰えを見せていき、代わりに博多は廻船の中継港として繁栄。花街の博多柳町など、華やかな商人文化が生まれたのもこの頃でした。

一時的に途絶えていた博多松囃子(5月の博多どんたくで開催)は、黒田忠之の命で1642年に再開し、博多祇園山笠も再開。1687年には「追い山」が始まっています。1732年の「享保の大飢饉」の際は、博多でも6000人の餓死者が出ました。現在の中洲には、行き倒れた人々を弔う「川端飢人地蔵尊」が建てられています。

近現代

明治維新後、「博多」と「福岡」が合併すると、県庁所在地の福岡市が出来上がります。廃藩置県によって福岡県は32の区に分割され、博多は「第2区」となります。市制を施行する際、「福岡市」にするのか「博多市」にするかで論争が勃発。

当時の人口比では、博多が福岡を上回っており、1890年、市名を「博多市」とする案が提出され、一時は「博多市」が優勢に。両者を分離独立させようという声も上がりましたが、軟禁等妨害工作等により、投票ではわずか1票差で「福岡市」に決定します。

那珂川を境に商人の町「博多」と、武士の町「福岡」に分かれ、代わりに、当時出来たばかりの駅名と新幹線の駅は「博多駅」となりました。明治の川上音二郎を筆頭に、博多は文化の街へと変化。福岡で初めて開店したとされる喫茶店「ブラジレイロ」が文学サロンとなります。

博多の街には博多電灯(九州電灯鉄道)が発足すると、東中洲に発電所を建設したことで岩田屋呉服店など博多の商店に電灯が灯されることに。1910年以降は路面電車が次々と福岡市に開業しました。

大正時代に入ると、当時の福岡市内で初の百貨店である「福岡玉屋」が開業するなど、商業の街としてさらに発展を遂げます。

太平洋戦争終結直前の1945(昭和20)年6月、福岡大空襲では博多も焦土と化し、その被害は甚大でした。1963年、もともと600m北西にあった博多駅が現在の場所に移転すると、田園地帯に駅から放射状に伸びる形で新市街が形成されていきます。

1972年4月1日に福岡市が政令市に昇格すると、「博多区」としてその名称を復活させました。

博多が多くの人から選ばれる理由

博多が多くの人々から選ばれる理由は、ズバリこの5つ!

  • 九州最大の陸の玄関口であるということ
  • 程良く色々なものが揃うこと
  • 空港や市内主要エリアへの交通アクセスの良さ
  • 博多のグルメが選りどり見取り
  • 物価の安さ

空港へのアクセスも天神へのアクセスも便利で、天神や中洲、薬院などは西鉄バスの150円循環バス区間であり、通勤通学も大変スムーズな住環境です。エンタメ要素も十分!2022年には筑紫口の再開発「博多コネクティッド」の一環として駅前広場が整備され、より快適な博多駅のまちづくりが進んでいます。

オフィスビルが多いイメージですが、山王公園や中比恵公園といった大きな公園もあれば、住吉神社や楽水園、アミュプラザには屋上庭園があるなど、都会の中にも自然の癒やし要素はしっかりと収まっている街です。

博多のおすすめスポット「つばめの杜ひろば」

博多でオススメするスポットは「つばめの杜ひろば」。「アミュプラザ博多」の屋上にある屋上庭園です。オフィスビルが密集する博多駅の屋上で花や緑が満喫できます。春はしだれ桜も綺麗ですよ!

子供たちが楽しめる「つばめ電車」や、九州の地図の上を電車ごっこする小人のオブジェが可愛い「鉄道神社」、夜景スポットともなっている「展望テラス」、季節の野菜が植えてある小さな田んぼなど見どころも豊富です。

鉄道神社は旅の安全を祈願する神社として住吉神社から分霊されたもの。厄除開運やさまざまなご縁を結ぶお手伝いもして下さいます!

連綿と受け継がれた歴史が息づく「博多」

「博多」の由来と歴史、いかがでしたか?昔からさまざまな人々や文化を受け入れてきた歴史の深さが、今の博多の魅力につながっているのかもしれませんね。

博多で暮らしてみたい!と思った方は、マンスリーマンションで試し住みをしてみませんか?家具家電や生活必需品がほとんど揃っているので、カバン1つですぐに引っ越せますよ。新宿であなただけのお気に入りスポットを見つけてくださいね。

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