【歴史シリーズ】「池袋」の名前の由来。広野から副都心へ成長した軌跡。
東京の3大巨大ターミナル駅の池袋。駅の東西にそびえる「西武百貨店」や「東武百貨店」を代表に、商業施設や文化芸術の場、緑の美しいエリアなどさまざま顔を見せる巨大都市として人気のエリアです。でも実は100年ほど前は、何もない広野が広がる農村地帯だったことをご存じでしょうか?
今回はそんな池袋の由来や歴史、巨大都市として発展してきた経緯などについて探ってみたいと思います。
池袋とはどんなところ?
まずは現代の池袋についておさらいしてみましょう。池袋は渋谷・新宿と並び豊島区の中枢を担う副都心です。池袋駅には4社8路線が乗り入れており、都内への移動はおおむね30分以内でアクセスできるため利便性は抜群。池袋駅から関東近郊エリアへ向けてたくさんの路線が接続されていることから、横浜や埼玉など関東近郊エリアに住む方にとっても外せない交通の要衝となっています。
駅周辺には、豊島区の産業を支える百貨店や家電量販店、シネマなどの商業施設が豊富に集まっているため、日本国内だけでなく海外からも大勢の人が訪れています。また繫華街としてのイメージも強い池袋ですが、芸術文化が発展した街としても知られており、劇場などの文化施設が充実していることも特徴の一つです。
誰もが知るマンガの巨匠も数多く輩出されていることもあり、アニメオタクの聖地となっている池袋。乙女ロードには、アニメオタク女子に嬉しいカフェやコスプレグッズのお店などが多く集まっています。そんな多様な文化が集まる街「池袋」はどのような歴史を辿ってきたのでしょうか。
「池袋」の由来は?
「池袋」を訪れると、あちらこちらで「フクロウ」のオブジェなどをみかけます。これはその昔池袋周辺にフクロウが多く生息していたからと言われています。「池袋」の由来には諸説ありますが、ふくろうよりも有力なのが「丸池」という池の存在。
池袋周辺は窪地になっており、そこにたくさんの池がある低湿地だったそう。なかでも池袋駅近くにある「丸池」は袋の形をしていたことから別名「袋池」とも呼ばれており、そのことから「池袋」と呼ばれるようになったんだとか。
丸池は清らかな水がたくさん流れる弦巻川の源泉となる池でしたが、時代の流れとともに1970年代に埋められてしまいました。しかしながら「池袋」という地名の由来になった池として、現在は「豊島区立元池袋史跡公園」として現在も後世に伝えられています。
池袋村で起きた「四面塔」の都市伝説
江戸時代の豊島区は7つの村で構成されていました。池袋は「池袋村」として名称はあったものの、にぎわいを見せていたのは「鬼子母神」がある雑司ヶ谷村あたり。池袋周辺には町屋や寺町、武家屋敷などもなく、農村地帯だったことから江戸の絵図にはお屋敷も何も描かれていません。
当時の池袋は大塚から板橋宿へ出る途中の通り道でしたが、寂れた農村地帯だったため夜になると辻斬りや追い剥ぎが出没する危険地帯でした。そして1721年のある日、一晩で17人もの方が辻斬りの被害に遭ったことから、池袋村の有志によって建てられたのが「池袋四面塔尊(しめんとうそん)」です。
当時は魔物が人間に憑依することで辻斬りなどが起きると信じられていたため、雑司ヶ谷鬼子母神堂の住職に死者の供養とともに魔物の封印をお願いしたそう。そして四面塔が完成してからは、災難は解消されたとのことです。
しかしながらこのお話には続きがあります。実はこれまで区画整理や再開発により、2度に渡り四面塔を強制的に移動させたところ、1度目は事故死が多発し、2度目も事故が頻出。結局2度目に四面塔を移動させた丸物デパート(現在のパルコ)は倒産に追い込まれました。「塔を動かすと祟りが起きる…」それが四面塔にまつわるちょっと恐ろしい都市伝説です。
農村地帯から都心をつなぐ「山手線」停車駅へ
100年ほど前の農村地帯からは想像できないほど生まれ変わった「池袋駅」周辺エリア。それほどまでに大きな発展を遂げたのは、これまでの長い歴史から考えるとつい最近の出来事です。
きっかけは明治から躍進的に広がった鉄道の開通で、日本で1番最初の鉄道は1872年(明治5年)9月に開通した新橋から横浜間。当時高輪付近では、軍事上の理由から陸地の測量が許可されなかったため、海に堤防を築きその上を蒸気機関車が走っていたようです。
鉄道が開通したことで、これまで一日がかりで移動していた江戸から横浜までをわずか1時間ほどでつなぐため、革新的な乗り物として人々を驚かせました。しかしながらその反面、黒煙による作物や商店への影響から、鉄道の敷設を敬遠する動きもあったようです。
その後1885年(明治18年)には品川から新宿を経由し赤羽までをつなぐ品川線が開通。当時、常磐方面の石炭を横浜から海外へ輸出するためには、上野から赤羽へ北上しそこから品川線で南下するルートしかありませんでした。
そのため、田端から目白をつなぐ「豊島線」を計画。しかしながら目白駅周辺の住民から猛反対されたうえ、駅周辺の拡張工事も難しいことから、当時民家も少なく原野として広大な土地の確保が可能だった「池袋」に白羽の矢が立ったわけです。
そして1903年(明治36年)、街も歴史もない農村地帯に豊島線の「池袋駅」が誕生しました。路線をよくみると、巣鴨から目白に向かう路線が大塚〜池袋間で大きなカーブを描いているのは、そのときの名残だと言われています。当時池袋駅は、田端〜池袋をつなぐ単線として「豊島線」と名付けられていましたが、開業前の1901年(明治34年)に品川線と豊島線を一本化し「山手線」の名称に変更されました。
その時点でも山手線はまだ上野から新橋までをつなぐ路線がなかったため、中野駅を出発し、新宿〜東京〜品川〜渋谷〜新宿〜池袋〜上野を結ぶ「のの字」で運行。1925年(大正14年)にようやく現在の環状線になったそうです。
私鉄の開通と文教地区への発展
そして池袋駅ができたことで西口エリアに2つの学校が開設し、文教地区としても発展していきます。1909年(明治42年)に豊島師範学校(現在の東京学芸大学)が開設。その後1918年(大正7年)には立教大学が築地から現在の地へ移転してきます。これにより通学で池袋駅を利用する学生が増え、ようやく宅地開発も進みはじめました。
山手線全線が開通した頃、1914年(大正3年)には東上鉄道(現在の東武東上線)、翌年には武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と私鉄各社の路線も次々と開業。それでもすぐに街が変化することはなく、花街のある「大塚」や中山道沿いの門前町として茶店などでにぎわう「巣鴨」と比べると、郊外にある乗り換え駅の1つにすぎませんでした。
そのため当初は、東上鉄道が「大塚」起点、武蔵野鉄道は「巣鴨」起点となっていたそうです。しかしながら新たに鉄道の敷設がしやすいことや、時代の流れを読んで「池袋駅」を起点に移したと言われています。
1932年(昭和7年)には巣鴨町・西巣鴨町・長崎町・高田町が東京市へ編入し「豊島区」が誕生します。すると池袋は交通の拠点として次第に乗降客数が増えていったのです。池袋駅東口周辺には商店街が形成され、駅前を中心ににぎわいを見せ始めていました。
そこで池袋のさらなる発展を考え、護国寺まできていた市電を池袋まで延長し開通。1954年(昭和29年)に営団地下鉄丸の内線の池袋駅が開業します。こうして池袋は国鉄と私鉄、市電とバスの乗降客によりにぎわいはじめ、駅周辺に百貨店が次々と出店しはじめていくのです。
文教地区から繫華街へ戦前の池袋
ではなぜ、広野から文教地区として発展し始めた池袋駅周辺が現在のような繫華街へと発展したのでしょうか?そのきっかけとなったのが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災だと言われています。池袋駅の周辺に住んでいた住民は郊外へ移住してしまいますが、震災復興の都市計画により明治通りを開設。
路線バスの経路になり、道路沿いはにぎわいはじめます。その後1932年(昭和7年)になると、豊島区の誕生とともに、池袋駅近くに区役所を設置。その後1935年(昭和10年)菊屋デパート(現在の西部百貨店)の開店を皮切りに、池袋駅周辺に百貨店が続々と進出していきます。こうして池袋駅は、利便性の高いターミナル駅として徐々に発展をし始めていました。
東京大空襲による「ヤミ市」の盛況と衰退
関東大震災後、徐々に復興が進んでいたところに起きたのが、太平洋戦争による「東京大空襲」です。1945年(昭和20年)4月13日、豊島区、滝野川区、荒川区の住宅街に328機のB29が襲来し、2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下したのです。これにより豊島区の東部から中央部にかけてはそのほとんどが焼き尽くされてしまいます。焼け野原となった池袋駅の復興の足掛かりとなったのが「ヤミ市」の存在でした。
当時は戦争における費用や物資が最優先されるため、経済資源のすべてが国家や政府のもとで支配される「統制経済下」におかれていました。「ヤミ市」とはそうした物不足の中、公的に禁止されている流通経路で品物が出回る市場のことをいいます。
「ヤミ市」というだけあって価格の統制はとれておらず、すべて「ヤミ値」で取引していたため、なかには通常の何倍、何十倍もの価格で取引されていました。配給を待っていても、食糧がなかなか手に入らなかった時代においては、ヤミ価格でもよく売れていたそうです。
東武東上線沿線と武蔵野鉄道沿線は戦災の被害を免れた地域も多く、両沿線の終点である「池袋駅」は交通の要所としても大きな「ヤミ市」を形成するのに良い条件が整っていたのです。1946年(昭和21年)3月、当時テキ屋の親分だった「森田信一」氏が東京で第1号となる、バラック建て木造長屋式のマーケット「池袋連鎖市場」を東口一帯に建設。
その後、東口と西口にそれぞれ「マーケット」と呼ばれる露店街が形成され、ヤミ物資の取引が活発におこなわれていました。1947年6月時点の調査では、池袋周辺に13か所のマーケットが存在し、商店は1200店舗以上にも増えていたそうです。
当時のヤミ市は半数が飲食店でその大部分は呑み屋でした。素人が手作りの釜で蒸留した酒「カストリ」や、燃料用のアルコールを主体につくられた「バクダン」などが出回っていたそうです。カストリはしばしばメチルアルコールが混入し、失明や命を落とすものもあり、バクダンは呑んだ途端に胃が燃え上がり、破裂するほどの刺激があったようですよ。ヤミ市で呑むことは「死と隣り合わせの行為」とも言われていたのだとか…。
こうして終戦後に一気に盛り上がりを見せた「ヤミ市」にストップをかけたのがGHQ(連合国軍総司令部)の存在でした。戦後の日本は民主化を目指して再建していたため、物資の横流しや衛生上問題のある商店に対しての規制が強化され、全国的にヤミ市の一斉摘発などもおこなわれていたようです。
そして1949年8月に「露天整理令」を発令し、1950年3月末までに東京都内6000軒の露天を撤去するように命じます。ちょうどその頃、池袋駅周辺は百貨店の進出により旅客をスムーズに処理するための広い駅舎が必要だったため、「戦災復興土地区画整理事業」を本格スタート。こうしてヤミ市の閉鎖や取り壊しが急速に進み、翌年にはそのほとんどが姿を消したそうです。
東に「西武百貨店」、西に「東武百貨店」になったワケとは?
池袋駅東口では、1935年(昭和10年)に菊屋デパートがオープン。開業から5年後の1940年(昭和15年)に武蔵野鉄道が買収し、「武蔵野デパート」に改名します。その後1949年(昭和24年)に「西武百貨店」として生まれ変わりました。
また西口では、1950年(昭和25年)に東横百貨店がオープンします。1962年(昭和37年)、西口に「東武百貨店池袋本店」がオープンすると、1964年に東横百貨店は東武百貨店に譲渡されてしまいます。これが東に「西武百貨店」、西に「東武百貨店」がある理由です。こうして池袋駅は、東口と西口に巨大百貨店を有するターミナル駅として益々人気が高まり、買い物客の奪い合いが繰り広げられていたそうです。
しかし1980年代になると西武池袋店は「店の中に街をつくる」ことを目指し、全百貨店のなかで売り上げトップを独走します。その後も一大ショッピングゾーンの「サンシャインシティ」や家電量販店など数々の商業施設がこぞって池袋へ開業します。こうして広野が広がる農村地帯からわずか100年あまりで、池袋駅は押しも押されもせぬ人気都市へと成長したのです。
「池袋」が選ばれている理由
池袋駅は、鉄道4社8路線が乗り入れるビックターミナルで、渋谷、新宿駅と並ぶ世界トップクラスの利用者数を誇ります。都内の主要駅を網羅する「山手線」や埼玉へのアクセスに便利な「埼京線」、「湘南新宿ライン」、「東武東上線」、「西武池袋線」など、都心はもちろんのこと、埼玉方面へのアクセスにも優れています。さらに「東京メトロ副都心線」と「東急東横線」の直通運転により、横浜方面へのアクセスも容易になりました。
また駅の東西にある巨大百貨店や、周辺の商業施設、家電量販店など、生活に必要なものからとびきりのエンターテインメントまで、すべてが揃っている刺激的な街であることも特徴の1つです。近年は高層ビルやタワーマンションがそびえる大都市となった池袋ですが、今でも自然溢れる公園や屋上庭園、歴史を感じられる文化スポットも数多く存在し、副都心「池袋」とは違った空気を感じられるエリアもあります。
またこれだけ利便性が高いと心配になるのが家賃などの居住費ですが、駅から少し距離を離すことで、意外にもリーズナブルな物件が揃っていることも魅力の1つでしょう。こうした駅周辺の機能に加え、住みやすさも抜群なことから、池袋は住みたい街ランキングでもここ数年10位以内にランクインしている人気のエリアです。
鉄道や百貨店などのハード面だけでなく、芸術や文化などのソフト面でも多くの人々を惹きつける街づくりがされている池袋。これからどのように変化していくのか目が離せない注目のエリアです。
池袋のオススメスポット!サブカルの新スポット「ハレザ池袋」
「ハレザ池袋」は、豊島区が掲げる「国際アート・カルチャー都市」のシンボルプロジェクトとして建てられた、劇場やオフィス、飲食店などからなる大規模複合施設です。その中枢を担うのが8つの劇場で、歌舞伎やアニメ、シネコンなどを楽しめます。
中でも中核となる多目的ホール棟「東京建物ブリリアホール」は、3層1300席で構成されていて、宝塚劇場や演劇、ミュージカル、バレエやオペラなど、多彩なジャンルが公演されています。
またオフィス棟にあるハレザタワーにある「TOHOシネマズ池袋」は、「サウンド・シアター」をコンセプトに設計。全部で10スクリーン1735席あり、プレミアムシアターやコンサートホールのようなプレミアムサウンドなど、徹底的にこだわり抜いた音響設備の中で、映画に没頭できる空間づくりが魅力です。とくにTOHOシネマズ初となる、音の体感や迫力にこだわった轟音(ごうおん)が体感できるサウンドシステムは圧巻です。
こうした文化施設の発展の背景には、池袋が芸術活動の拠点として、大正末期から多くの芸術家が暮らした「アトリエ村」という地域が存在していたことと密接に関係があります。この地域を「池袋モンパルナス」と呼び、日本の美術と文化に大きな影響を与えた芸術家たちが数多く引き寄せられていたのです。
また池袋からほど近い豊島区南長崎には、手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、後に日本のマンガ界を牽引する巨匠たちが青春時代を過ごしたと言われる「トキワ荘」というアパートがあります。現在は当時の暮らしを忠実に再現した博物館として一般公開されています。このように池袋の芸術家たちの歴史を辿りながら「ハレザ池袋」で最新の劇場空間を体感すると、また違った感動を味わえるかもしれません。
歴史や芸術に触れながら気軽にお試し住みしてみませんか?
池袋の歴史を振り返ってみると、広野だった農村地帯からの歴史は浅く、まだまだ新たな変化を期待できる発展途上ではないかと考えさせられます。ショッピングだけでなく、「東京芸術劇場」や「ハレザ池袋」など芸術文化発信の場としても注目したいエリアです。池袋には水族館やテーマパークなど、今回の記事では紹介しきれない魅力がまだまだあります。そんな奥深い池袋の住み心地を実際に体感してみませんか?
池袋周辺にはマンスリーマンションが豊富に揃っていますので、住みたいエリアにいつでもお引っ越しできますよ。お部屋のタイプもさまざまですので、きっとお好みにあったお部屋が見つかるでしょう。
また敷金は不要で、必要な家具家電はあらかじめすべて揃っていますので、思い立ったらすぐにでもお試し住みをしていただけます。池袋の歴史や芸術に触れながら、池袋の住み心地を体感したい方にとても便利ですよ。どうぞスーツケース1つでお越しください。