【歴史シリーズ】「巣鴨」の由来。にぎわいの街を支えたお地蔵さまの歴史

巣鴨といえば「おばあちゃんの原宿」「赤パンツ」「とげぬき地蔵」など、たくさんの代名詞をもつ人気のエリア。「中高年が集う街」としてのイメージが強い巣鴨ですが、最近は若い世代にもその魅力が浸透し、老若男女問わず楽しめる街へと変貌しています。

今回はそんな巣鴨の歴史や、名所の由来など巣鴨の魅力をもっと知りたい方へ、じっくりと歴史を振り返りつつご紹介したいと思います。

巣鴨とはどんなところ?

まずは現代の巣鴨についておさらいしてみましょう。豊島区の北東部にある巣鴨は、中山道(なかせんどう)今でいう白山通りを北西から南東に包むように広がる細長い地域です。通りを挟んで東側にはアトレヴィ巣鴨や西友、サミットストア、スポーツセンターなどがあります。反対の西側にはとげぬき地蔵で知られる巣鴨地蔵通り商店街が約800mに渡り広がり、連日地域の人々や観光客で賑わっています。

そのため観光客は西側の地蔵通り商店街、地域住民のお買い物の中心は駅周辺と2つの顔をもつエリアです。時代が変わり都心の街並みが急速に変化しても、巣鴨には大きな商業施設ができるわけでもなく、話題のお店が出店するわけでもありません。巣鴨の歴史と文化を守りながら人々とのふれあいを大切にし受け継いできた、古き良き時代の日本を垣間見れる素敵な街なのです。

巣鴨の名前の由来とは

「巣鴨」には、巣鴨地蔵通り商店街のおもてなし番長として活躍する「すがもん」という可愛らしい鴨のキャラクターがいます。やはり由来にも「鴨」が関係しているのでしょうか?巣鴨の由来には諸説ありますが、室町時代の『長禄江戸図』(1457〜1460年)にはすでに「巣鴨」と描かれていたことから、新しい呼び名ではなさそうです。

この地にあった大きな池に「鴨」が巣をつくっていたから…という説も残っています。ただし今の巣鴨には池や川などの水源はありません。1856年(安政3年)頃の古地図によれば、長さ158m、幅が32.4mの長池があったそうです。そこから「谷戸川」「境川」「谷田川」「藍染川」とそれぞれの地域ごとに川の名称がつけられ、不忍池まで流れ込んでいたそうです。その後再開発などにより徐々に湧き水が減少していき、ついに大正時代には池が埋め立てられたそうで、今はその姿をみることはできません。

このほかにすぐそばの王子を流れる石神井川に対して州に対面した場所として「州処面(すがも)」という説や、川の流域に「菅(すげ)」が一面に茂っていたことから「菅面(すがも)」と名付けられたなという説などがあります。いづれにしても今はどこにも面影はありませんが、当時の巣鴨の情景を思い浮かべていると本当に「鴨」がいたのかもしれませんね。

巣鴨の原形「巣鴨村」

巣鴨のルーツは豊島区の約半分を占めていたとされる「巣鴨村」からはじまります。江戸時代の豊島区は、武蔵国豊島郡上駒込村、巣鴨村、池袋村、長崎村、雑司ヶ谷村、下高田村、新田堀之内村の合計7村で構成されていたそうで、そのほとんどが純農村地帯だったそう。その後巣鴨のように中山道沿いや神社の門前地域で少しずつ街がつくられていきます。巣鴨村は東側に武家屋敷、中山道沿いに集落地、北部と西南地域に耕地が広がっていました。

やがて江戸の市街地が拡大するのと共に、純農村地帯から町場地域へと変化していきます。1700年代半ばには駒込・巣鴨・雑司が谷・高田やお寺の一部地域に門前が成立し、町奉行所の管轄下になると、村役人や町役人による行政がおこなわれていたそうです。

江戸時代の巣鴨はどんな様子?今も昔も民衆から愛される憩いのスポット

巣鴨地蔵通りは中山道の起点である日本橋から出発して、京都の三条大橋までを結ぶ最初の立場(たてば)と呼ばれる休憩スポットです。巣鴨地蔵通り商店街の入口にある六地蔵尊の眞性寺(しんしょうじ)から巣鴨庚申塚(こうしんづか)までの旧中山道沿いに街並みがつくられました。ただし巣鴨地蔵通りには、宿場ではないため宿泊施設はありません。茶屋や一膳飯屋などのお食事処として、眞性寺への参拝客や旅人で大いににぎわっていました。

巣鴨地蔵通りを利用するもう1つの理由

巣鴨地蔵通りを訪れる人は旅人だけではありません。実は2㎞先にある板橋宿の行き帰りに腹ごしらえをするお食事処だったとも言われています。板橋宿には宿場町として江戸時代後期には54軒ほどのごはんと宿泊場所を提供する宿「旅籠(はたご)」がありました。そのなかには男性客向けに飯盛り女(めしもりおんな)と呼ばれる配膳を名目に売色行為をさせる女性がいたそうです。

これは江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたため旅籠側の裏工作として誕生しましたが、この頃公共事業などで宿場の経済が圧迫されていたことから、幕府もしばらくは見て見ぬふりをしていたようです。その後1740(元文5)年には「飯盛女は1軒に2人まで」幕府公認となったそう。

また板橋宿は入店前に女性の容姿を見定めてから入店できる江戸近郊では数少ない宿場町だったことから、男性たちに人気のスポットだったそうです。そのため、板橋宿に通う男性のお食事処としても巣鴨地蔵通りは人気を博していたそうです。

「菊」と「野菜の種」も巣鴨の特産物

江戸中期から明治にかけては、花や植木などの園芸の里としても発展していきます。江戸の切絵図を見ると中山道を挟んで北側には大名屋敷、南側には規則正しく町割りされていて、駒込から巣鴨地域が園芸地帯を形成していたことも記されています。その頃この地域にはたくさんの植木職人がいました。植木屋が発展していった要因としては、この辺りにある大名屋敷の庭の手入れに農民が従事するうちに植木屋へと発展していったと考えられています。

とくに巣鴨では菊づくりが盛んになり、花壇へ寄せ植えする「花壇づくり」からはじまります。その後1本の菊に数百の中輪を咲かせたり、菊を集めて虎や象を形どる「形造り」などさまざまな技巧をこらした菊細工へと発展していったそうです。菊づくりは現在の地蔵通り商店街の一帯でも盛んにおこなわれていたことから、今でも11月初旬には「菊祭り」でにぎわいをみせています。

当時江戸では気晴らしに見物をおこなう「物見遊山」が大流行。とくに秋になると菊見が秋の景物として江戸の人々にとって楽しみの1つとなっていました。江戸後期には秋に限らず四季おりおりの花見遊覧が市民の娯楽となったそうです。

野菜の種も大人気

この頃の巣鴨周辺は水田よりも畑地が多く、たくさんの野菜が栽培され、産地別に「巣鴨だいこん」や「巣鴨こかぶ」、「駒込なす」などの名前がつけられていました。中山道の沿道沿いには農家も多く、旅人の中には農家の縁側を休憩所として立ち寄る方もいたそうです。

そして庭先で珍しい野菜を見かけた旅人から種を欲しいと言われるようになり、農業のかたわらでタネの販売をするようになりました。明治中期になると種を扱う専門業者も現れ、とげぬき地蔵さまから板橋区の清水町までの間に種問屋と小売店が立ち並び、さながら種問屋街としても発展しにぎわっていたそうです。

商業の街から寺町へ。巣鴨を観光地化した立役者「とげぬき地蔵」のご利益は?

巣鴨の代名詞とも言える「とげぬき地蔵尊 高岩寺」。しかしながらその歴史はまだ浅く、巣鴨にやってきたのは1891(明治24)年になってから。もともとは1596年(慶長元年)湯島に創建し、その60年後に上野へ移ったあと明治になってから区画整理のために巣鴨に移転したそう。

「おばあちゃんの原宿」になった理由

高岩寺が巣鴨に移転したことで、古くからの檀家さんとの結びつきが切り離されてしまいます。そこで新たに巣鴨の地に人々を呼び込もうと考えられたのが縁日です。本来ならば地蔵菩薩様の縁日は24日のみですが、たくさんの方にもっと巣鴨の地に訪れてほしいと考えた住職がにぎやかしのため、毎月4のつく日(4日・14日・24日)を縁日としたそう。

さらに当時上野のすぐそばにある谷中の露天商にも声をかけたことで、縁日はより盛り上がりを見せ話題に。1985年頃の原宿・竹下通りが若者で溢れかえっていたことと対比させ読売新聞がコラムとして紹介し、翌年にはNHKでも取り上げられます。このことをきっかけにその後はさまざまなメディアで紹介されるようになり「おばあちゃんの原宿」として街のイメージが定着していったそうです。

「とげぬき地蔵」の由来とご利益

とげぬき地蔵の正式名称は「延命地蔵菩薩」といい、残念ながら秘仏のため拝見することはできません。ただしそのお姿をもとにつくられた御影(みかげ)は万病の治癒にご利益があるとして、江戸の庶民から親しまれてきたそうです。そのとげぬき地蔵さまの由来についてご存知でしょうか?とても不思議な逸話が残されていますのでここでご紹介しましょう。

1713年(正徳3年)5月、江戸小石川に住む田付の妻は、日頃から地蔵尊を厚く信仰していました。そんなある日、妻は男の子を出産してから重い病気に見舞われてしまいます。さまざまな医者に診てもらい手をつくしても一向に回復しません。田付氏は妻が信仰する地蔵尊にすがるしかなく、毎日、毎日病気平癒を祈りつづけました。するとある夜のこと田付氏は不思議な夢を見たのでした。黒い袈裟をかけた僧侶から「私の像を一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」と言われます。目が覚め枕元を見ると地蔵菩薩の御影があったのです。

そしてお告げのとおり、一万体の御影をつくり両国橋から川へ浮かべ、一心に妻の治癒を祈願したそうです。そしてその夜妻もまた、黒い袈裟をかけた僧侶が妻の枕元に現れた死魔を追い払う夢を見たと田付氏に報告します。それからというものの妻の病は日に日によくなり、ついに床を離れ、丈夫な体を手に入れられたそうです。この話を毛利家に出入りする僧に話したところ御影を頂戴したいと言われたので、田付氏は僧に2枚渡しました。

その後1715年(正徳5年)のある日、毛利家の女中が誤って口にくわえていた針を飲み込んでしまいます。慌てて医者を呼びましたが何もできずに女の苦しみは募るばかり。そこへ西順がやってきて田付氏からもらった御影の1枚を水で飲ませたところ、女中の飲んだ針が地蔵尊の御影を貫いた状態で出てきたのだそう。おかげで女中は一命をとりとめました。

以来「とげぬき地蔵」と呼ばれるようになったそうです。現在の御影は縦4センチ、横1.5センチの和紙でつくられており、その中央には尊像が描かれているそうです。この御影を痛みのある箇所に貼ったり、のどに骨が刺さったときに飲んだりすると治ると言われ、本堂で授与されています。

高岩寺もう一つの人気スポット「洗い観音」

高岩寺にはもう1つ隠れた人気の菩薩さまがいらっしゃいます。それが本堂の手前左側にある「聖観世音菩薩像」です。こちらは直接さわってお祈りできる菩薩さまで通称「洗い観音」とも呼ばれています。菩薩さまに水をかけ「悪いところを治してください」と念じながら洗うとご利益があるそうです。

洗い観音の歴史は、1657年の「明暦の大火」にさかのぼります。明暦の大火は東京大空襲や関東大震災を除いた日本史上最大の火災で、ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられています。江戸時代最大の火事で妻を失った「屋根屋喜平次」が供養のために「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進したといわれています。

いつから洗うようになったのか、なぜ悪いところが治ると言われるようになったのかなど由来は記されていませんが、いつしか信仰が生まれ、今でも連日たくさんの方が訪れています。ただし現在のようにタオルでやさしく洗うようになったのは、2代目洗い観音さまが誕生してから。初代の洗い観音さまはタワシで洗っていたため、顔がすり減ってしまったそうです。タワシからタオルに変わっても想いは変わらず、毎日たくさんの方が家族や周りの方々の病気治癒を願って列をつくっています。

江戸から東京へ変わってもまだ農村地帯だった明治の頃

1878(明治元)年になると、江戸から「東京」へと改称されます。それぞれの村は地域の改変により整備され、1889(明治22)年5月には、東京府に市制町村制が施行されます。豊島区を含む郡部でも大規模な合併が行われ、現豊島区域は巣鴨町・巣鴨村・高田村・長崎村の4町村に整理されました。しかしながらその頃の豊島区はまだまだ武蔵野の原野が広がる農村地帯のまま。その中でにぎわいを見せていたのは、巣鴨と雑司が谷の鬼子母神だけだったといわれています。その後巣鴨が大きく変わるきっかけとなったのが鉄道の開通です。

明治から昭和にかけて変わりゆく交通の要衝

1885年(明治18年)に日本鉄道品川線(品川~赤羽間)が開業されると、駅の1つとして豊島区内初の鉄道「目白駅」が開業します。当時は貨物輸送を目的としていたそうです。その後1903年(明治36年)4月1日、日本鉄道豊島線(池袋〜田端)敷設時に「巣鴨駅」を開業。

その翌年には品川線と豊島線の名称を廃止し、現在の「山手線」の名称へと改変されました。ただしこのときはまだ現在の3/4ほどの区間。その後きちんと丸い環状線になったのは、1925年(大正14年)のこと。実に40年もの月日をかけて山手線が完成しました。

山手線が徐々に発展していくとともに、巣鴨に移住してくる人もしだいに増えていきます。また大正大学の前身である天台宗大学の設立により、寺院の移転なども進んでいったそうです。

当時は地上駅として開業した巣鴨駅ですが、これまで複々線化や空襲の被害を受けたことから何度も改修され、現在の形になったのは、2010(平成22)年3月25日のこと。5代目にしてようやく現在のアトレヴィ巣鴨が入った駅ビルがオープンしたそうです。

1968年(昭和43年)には都営6号線(現在の三田線)が開業し、巣鴨〜志村(現在の高島平)をつないでいました。その後1972年(昭和47年)年に日比谷まで延びています。実は都営6号線から今の呼び名は「三田線」が正式名称となっているのをご存知ですか?いったん「都営三田線」に改称されましたが、その後2000年(平成12年)には「三田線」と再度名称が改められているそうです。でもやっぱり「都営三田線」と呼ばれることの方が多いようですよ。

「巣鴨」が選ばれている理由

巣鴨は、山手線の停車駅ですぐそばには巨大ターミナル駅池袋があるにもかかわらず、いい意味で都心ぽくない雰囲気が漂います。おじいちゃん、おばあちゃんたちが多い街として有名ですが、だからこそそこに人情の輪が広がり、街には江戸から続くにぎわいが途絶えません。近年は働き方も多様化し、人々の注目する街にも変化が現れ始めています。

巣鴨周辺には美しい庭園や緑が残るエリア、神社や史跡などの文化遺産がたくさん集まる場所があります。こうした日本の文化を感じられる場所に魅力を求めて観光のみならず、巣鴨に住んでみたい!という方が増えはじめているのです。昭和の時代を知る人には懐かしさ、令和の今を楽しむ若者には新鮮にうつる、そんな巣鴨に今さまざまな世代の方が魅力を感じています。

巣鴨のオススメスポット!元祖巣鴨のお地蔵さん「眞性寺(しんしょうじ)」

巣鴨のお地蔵さんといえば、今や「とげぬき地蔵」で知られる「高岩寺」のほうがメジャーですが、元祖「巣鴨のお地蔵さん」は眞性寺の笠をかぶった旅姿のお地蔵さまで「江戸六地蔵尊」1つとなっています。江戸深川に住んでいた地蔵坊正元が不治の病にかかり、地蔵菩薩に病気平穏を祈願したところ無事に治癒したことから、京都の六地蔵に倣って江戸の出入口6箇所に旅の無事を祈るお守り役として造立したそうです。

眞性寺のお地蔵さまはその中で4番目の1714年(正徳4年)に造立され、そのほかの六地蔵さまは品川寺・東禅寺・太宗寺・霊巌寺・永代寺にそれぞれつくられましたが、永代寺は廃寺となり消滅しています。

お地蔵さまのお姿は門前からも見過ごせないほどの存在感で、高さは2.68m、台座を含めると5mにもおよび、東京都指定有形文化財(彫刻)にも指定されています。毎年6月24日には、災い回避祈願のために大念珠を回す「百萬遍大念珠供養」を開催。大念珠は全長16m、541個の桜材からなる大きな数珠で、大勢の大人が念仏を唱えながら地蔵菩薩の供養をおこないます。

歴史と文化と人情にふれあう生活

巣鴨の歴史と由来について、テレビでしか巣鴨を見たことない方には新鮮に感じていただけたのではないでしょうか?今や空前の昭和レトロブームもあり、巣鴨の人気は若者にも定着しはじめています。ぜひこの街の歴史や文化、人々の人情に触れてみたいと思いませんか?

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この記事を書いた人

颯そら/Webライター

元不動産会社出身の不動産ライター。双子女子と年子の兄の3人の子育てをしながら独学で宅地建物取引士の資格を取得。
現在はフリーライターとして主に関東エリアの紹介記事やインタビューなどのカメラ取材も手がけています。
今ハマっていることは子どもの空手のサポート。親子で研究と改善を繰り返しながら笑ったり、怒ったり、時には涙を流したりと四苦八苦の日々。でもきのうより今日、今日より明日とめざましく成長していく子供の姿に感動しています。趣味は旅行、温泉めぐり、画像や動画編集(勉強中)。