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【歴史シリーズ】「六本木」七変化!武家屋敷街からブランドエリアまでの変革

日本屈指のハイスペックブランドエリア「六本木」。現在の六本木エリアは、六本木ヒルズや東京ミッドタウン、泉ガーデンタワーなどオシャレなレストランやショップに加えオフィスを併設した複合ビルや高級タワーマンションが集まるエリアです。

昭和から平成にかけての「夜の街」を背景に持ちつつ、近年ではIT系を中心としたビジネスエリアへと変化し「眠らない街」のイメージから一転、「オフィス街」や「成功者の街」のイメージが定着してきました。 今や、きらびやかな街「六本木」の江戸期から戦後の復興までのさまざまな移り変わりについて、歴史を遡ってみたいと思います。

六本木とはどんなところ?

まずは現代の六本木についておさらいしてみましょう。東京都港区にある六本木駅は、東京メトロ日比谷線と大江戸線が2路線乗り入れる地下駅です。徒歩圏内にも複数の路線が集まる上、銀座・新宿までは乗り換えなしで約10分、渋谷13分、東京16分と都心部へのアクセスは抜群です。

1点気をつけたい注意点が、大江戸線が地下深くにあるため移動に時間がかかること。なんとその深さは42.3m(地下7階相当)!都心の地下鉄ではもっとも深く、中には転んでしまう方もいるようなので余裕をもってお出かけすることをおすすめします。

街の雰囲気は外資系ナンバーや外車などの高級車が多く走っていて、繫華街はあるものの、質が高く洗練されたお店や人が多く集まります。また最近では「国立新美術館」と六本木ヒルズの「森美術館」、東京ミッドタウンの「サントリー美術館」などアートを巡る「トライアングル散歩」を楽しめる”アートの街”としての要素もプラスされ、日本人観光客のみならず、外国人観光客からも高い注目が集まっています。

さらに江戸の風情を残す庭園や誰もがくつろげる緑あふれる公園などもほどよく配置され、都心で快適に生活していく上でのすべての物がぎゅっと凝縮された誰もが憧れるブランドエリアの1つです。

六本木の名前の由来とは

さて、そもそも六本木の由来とは、どのようなものなのでしょうか?やはり「六本木」というだけあって、「木」にまつわるお話がありそうですよね。

実際は、由来について確かなものはありませんが、2つの由来が言い伝えられています。一つは、この地に松の大樹が6本あった説。もう一つは、木にちなんだ大名のお屋敷が集まっていたという説。

ちなみに大名の名前は、上杉・朽木(くつき)・高木・青木・片桐・一柳(ひとつやなぎ)さんだったそうですよ。確かに6つの木が揃っていますね。六本木、麻布周辺は幕末の江戸切絵図で見ても、立派な大名のお屋敷が立ち並ぶ武家屋敷街。切絵図にはお屋敷に住む大名の名前が記されており、「上杉」は確かに存在していました。

他にも「木下」「松平」など木にまつわる名前のお屋敷がいくつか見受けられました。やはり「木」に何かしらの由来がありそうですね。

なぜ?六本木は武家屋敷街として発展したのか?

六本木周辺には、暗闇坂や狸穴(まみあな)と呼ばれる場所があります。暗闇坂の由来は、樹木がうっそうと生い茂り、昼間でも暗闇を歩いているかのような薄暗区狭い坂道だったからと言われています。また狸穴はタヌキやアナグマなどが棲むほら穴があったことが由来。タヌキにまつわる伝説もいくつか残されています。

江戸城の南西に位置する六本木周辺は大きな街道から外れていたため、現在の六本木からは想像できないほど、田畑の広がるのどかなエリアだったそう。そこから武家屋敷街へと発展していくのは、江戸時代に入ってから。もともと高台の多いエリアで見晴らしが良いことから、寺社仏閣が多く造られるようになりそれを機に、大名屋敷も次々と建設され、麻布、六本木周辺は見事な武家屋敷街へと発展していきます。

何が違う?「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」大名お屋敷の使い分け

江戸時代には参勤交代により大名は江戸へ1年仕え(参勤)、次の1年は本国に戻り他の大名と交代する(交代)ことが義務化されました。そのため大名は、幕府から1人につき3つのタイプのお屋敷を与えられます。それが「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」です。

「上屋敷」は大名の邸宅にあたるお屋敷。大名が通わなくてはならないため、比較的江戸城に近い場所にあったそうです。また大名の妻子は江戸幕府の人質として上屋敷に常住しなければなりませんでした。そして「中屋敷」には隠居した主や成人した跡継ぎ、側室などが暮らし、「下屋敷」は物資の貯蔵庫としての役割や別荘、別宅などとして使用されていたようです。

下屋敷は郊外に造られることが多かったため、敷地も広く、庭造りに凝る大名もいたそうです。そのため、今も残る庭園のいくつかは下屋敷跡が多いと言われています。江戸末期の大名たちは、江戸に上り、近くの道場で剣の腕を磨きつつ、江戸の人脈を広げていたといわれています。そして武家屋敷周辺には、さまざまな食料や商品を納めるために近隣に商人や庶民などの町屋も発展していきます。麻布十番や六本木交差点あたりには、今もなお、その頃から続く菓子屋や蕎麦屋が残されています。

幕末の六本木は 国際色豊かなエリアへ

安政6年(1859年)には、麻布の善福寺にアメリカ公使館が設置され、初代駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が寄宿していたことから、境内にはハリス氏の肖像を描いた記念碑が建立されています。またアメリカ公使館の設置を皮切りに、諸外国の公使館や宿舎が次々と増えていきます。いまでは麻布を中心に約80カ国の大使館がおかれ、国際色豊かなエリアとしても有名です。

武家屋敷街から日本陸軍の街へ

明治時代になると、東京にはさまざまな軍事施設がつくられました。中でも六本木は、住人も少なく軍隊の施設を配置するのにぴったりの広大な敷地を確保できたことから日本軍の兵隊が暮らす街へと変化していきます。現在の東京ミッドタウンがある「長州藩下屋敷」跡地には、東京鎮台歩兵(ちんだいほへい)第一連隊が駐屯。

港区内には軍の司令部や医療機関、練兵場(れんぺいじょう)などが設置され、まさに陸軍の拠点として機能していました。そして昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の際に出た死者は約10万人。アメリカ軍によって行われた空襲により、東京の下町一体が焼き払われてしまいました。

3,000トンもの爆弾の雨。「山の手大空襲」により港区焼失

港区が大きく被害を受けたのは、同じく昭和20年の5月25日・26日。東京大空襲の際は325機だったため、それを大きく上回る470機ものB29が襲来します。24日からはじまった空襲では東京大空襲を上回る約3,000トンもの爆弾が投下され、港区を含む東京の大半が焼失したといわれています。

この山手地区を標的とした通称「山の手大空襲」により3,000人以上が亡くなったと言われています。そして港区周辺で被災した方は113,000名。青山交差点付近は火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなっています。またこのときに被災した方の貴重な記録が以下のように残されていました。

”夕方から明け方までB29からの爆弾や焼夷弾(しょういだん)が雨のように落下し、部隊が丸焼けになった”

我々からは想像できないほどのなんともおぞましい光景です。その方は、衛生兵と呼ばれる、軍隊の医療や衛生管理をおこなう兵士。自分の命を顧みず、傷ついた兵隊の救護や治療のため戦火の降り注ぐ中一晩中看護に徹したそうです。

「消せない火災」を起こすために開発された「焼夷弾」とは?

1945年、米軍が日本への空襲に主として使用したのが、「焼夷弾」と呼ばれる爆弾です。焼夷弾とは、火薬ではなくガソリンなどの燃焼力の強いゼリー状の油が入った爆弾で、木や紙でできた日本の家屋を効率よく燃やすために開発されたそう。38本の子爆弾を束ねた状態で、投下すると上空で分解し、屋根を貫通し屋内にとどまって爆発。

火のついた油脂が壁や床などにへばりつき、水などではなかなか消すことができなかったそうです。なんと米軍は完璧な空襲を引き起こすため、日本の都市構造から建物の配置、人口密度、火災保険の格付けまで徹底的にデータを調べつくしていたようです。

その上で「焼夷区画図」を作成し、燃えやすい区画から燃えにくい区画までをエリア分けし、住宅密集地や商業地などに集中投下することを計画。日本の家屋は火災に弱く、火災こそが最大の兵器になると、1934年(昭和9年)の函館火災や江戸の大火までさかのぼり「消せない火災」を引き起こすため徹底的に調べつくし、計画通り日本は火の海に包まれます。

そうして起こった1945年3月10日の「東京大空襲」と5月25日「山の手大空襲」により、東京の市街地はほぼ壊滅したとされ、この日以降、東京への大規模な空襲は終了しました。また徳川家歴代将軍のお墓である徳川家霊廟(れいびょう)がある寛永寺や増上寺や東照宮などの重要な建造物なども多く焼け落ちてしまいました。

終戦後はアメリカの街へ

そこから昭和20年8月15日の終戦により、大きく街の姿が変貌していきます。日本陸軍の街だった六本木がアメリカ軍の街に一変したのです。そこからは、アメリカ軍の街として外国人向けの飲食店やショップにより発展してきます。

また、六本木や銀座には占領軍専用のキャバレーやダンスホールがつくられ、バンドマンやダンサーなど以外の日本人は立ち入りできない「東京租界」と呼ばれるエリアがありました。そこには戦争で夫や職を失った女性がダンサーとして雇われていたそう。そこから「江利チエミ」さんや「雪村いづみ」さんなど著名な有名人も現れたそうです。

戦後屈辱の5年間「オキュパイド・ジャパン」時代

終戦してからの7年間、アメリカの占領下にあった日本は、2年後に民間貿易が正常化されたものの、日本人にとっては屈辱的な「MADE IN OCCUPIED JAPAN(メイド・イン・オキュパイド・ジャパン)」の表示が義務付けられます。ちなみにオキュパイド・ジャパンとは「占領下日本」という意味。民間貿易が再開された昭和22年(1947)〜昭和27年(1952)の5年間日本は「占領下にある日本でつくられた製品」として海外へ製品の輸出をしていたそうです。

その後昭和27年(1952)対日講和条約の発効や翌年の朝鮮戦争の休戦により、「メイド・イン・ジャパン」の表示が許されるようになった頃には、日本人の暮らせる街へと変わりつつありました。ただし六本木には東京租界の名残りからか、相変わらず米兵向けのクラブやバーなどが多かったようです。

テレビ朝日開局によるアメリカの街から若者の街への変貌

昭和34年(1959)2月にテレビ朝日(旧:日本教育テレビ)が開局されると、六本木の街は華やかな街へと変貌していきます。テレビなどの芸能関係者やアーティストが移り住み、若者が多く詰めかけるようになってきたのです。その頃外国の公使館や海外文化に惹かれて六本木に集まる若者たちは「六本木族」と呼ばれ、一世を風靡しました。

またそこへ目をつけた芸能事務所の関係者が六本木にたむろしていた若者を集め「野獣会」を結成。芸能界の登竜門として、数々のスターが誕生していったようです。そして六本木の街はいつしか「アメリカの街」から「若者の街」へと変貌していったのです。

大きく利便性が高まった「日比谷線」「大江戸線」の開通

若者の街として急速に注目を集めるも、どこか不便な場所だった六本木。当時は都電やバスなどで移動していました。昭和39年(1964)にはオリンピックの開催に合わせ、日比谷線が開通。それにより、銀座や渋谷方面へのアクセスが良好になり、さらに街は発展しています。

さらに平成12年(2000)には大江戸線も全線開通し、新宿方面や汐留、下町方面へのアクセスも乗り換えなしで行けるようになります。通勤のみならず観光客が訪れる際にも快適に移動できるようになったため、誰もが六本木へ訪れやすくなりました。

六本木をハイスペックな街へと引き上げた「六本木ヒルズ」と「東京ミッドタウン」

貴重な遺跡が眠る「東京ミッドタウン」の歴史

東京ミッドタウンは、今や年間3,000万人も訪れる人気スポットですが、ミッドタウンがオープンするまでの約400年間は、一般の人が立ち入りできないエリアだったのをご存知でしょうか?江戸時代には長州藩毛利家の下屋敷、明治時代には、政府の軍用地として兵舎が並んでいました。

さらに第二次世界大戦敗戦後はアメリカ連合軍に接収され、その後は防衛庁が置かれるという激動の時代をくぐり抜けてきたのです。ミッドタウンの開発工事の際には、3万年前の旧石器時代の石器や古墳時代の集落跡など貴重な遺跡が次々と出土されたそうです。これは港区最古の遺跡として太古の人々の暮らしを伝える貴重な発見となりました。

「六本木ヒルズ建設」には17年もの歳月がかかった

六本木エリアは戦前の空襲で焼け野原になったエリアでもあり、防災面から懸念されていた地区でもあります。戦後の復興事業においても、道幅が広がることなく幅員3mほどの狭い道路に木造を中心とした低層住宅が密集していました。そのため消防車は入れず、救急車がやっと通り抜けられる防災面で課題を抱えた地域だったんです。1986年(昭和61年)東京都から六本木六丁目地区を「再開発誘導地区」に指定されたことを機に、約400件の地権者と国内最大級の市街地開発プロジェクトを進めてきました。

そこから2003年(平成15年)4月、実に17年もの歳月を経て「六本木ヒルズ」がオープン。それが六本木周辺の再開発により道路は拡張され、緑の広がる公園や広場が次々とできていきました。

そんな中、六本木ヒルズの建設に際しては、バブル崩壊や反対派住民による抵抗など実に17年もの歳月を要しました。六本木ヒルズにおいても高さを出すことで、毛利庭園や美しい広場が形成され誰もがくつろげる広々とした空間を創出。防災面でも10万食の食料や毛布、簡易トイレを備えた備蓄倉庫や防火水槽も整備され防災面でも安心の場所として整備されました。

「大人の街」がコンセプトの六本木はいつしか、観光地としての魅力やベビーカーを押す親子連れも多く見られる街に。戦後の焼け野原から再開発前の六本木エリアから比べると、 驚くほどの安全で快適な街へと発展していったのです。

「六本木」が選ばれている理由

世界が注目する流行の発信地を住処に

六本木は東京の中心的存在でありながら、街には心やすらぐ緑の公園や街路樹、アートを取り入れ、ビジネスや観光としての拠点だけでなく、ここで暮らす人々の環境も考え尽くされた、街と言えるでしょう。

歴史的文化から、さまざまな国の大使館も近くにあり、日本にいながらにして外国の文化を感じられる不思議なエリアでもあります。これまでの歴史を振り返りながら、これからの未来を創造していける新と旧が共鳴するように響き合う街として、これからも進化し続ける楽しみな街です。 都市の利便性を存分に享受しながら、ワンランク上の生活を送りたい方にピッタリなエリアと言えるでしょう。

六本木といえばここ!

大名お屋敷の面影を残す六本木ヒルズの「毛利庭園」

今や六本木の代名詞ともいえる六本木ヒルズには今もなお、江戸のかおりを残す一角があるのをご存知でしょうか?それが長府藩毛利家の上屋敷跡の「毛利庭園」です。現在六本木ヒルズのある六本木6丁目付近は、江戸時代の敷跡」で、六本木ヒルズにある毛利庭園は、慶安3年(1650)、毛利元就の孫、秀元が甲斐守となり、現在の六本木ヒルズがある場所へ「長府藩毛利家の上屋敷」を設けます。

その後元禄15年(1702)には赤穂事件を起こした10名が切腹したお屋敷としても名を残しています。赤穂事件とは「忠臣蔵」として有名な江戸城で起きた「松之廊下刃傷事件」で喧嘩両成敗の時代に仕掛けた側の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のみ即日切腹となり、襲撃を受けた吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)はお咎めがなかったことに反発した浅野側の家臣が起こした仇討ち事件です。

さらに明治の大軍人となった乃木希典(まれすけ)や中央大学の創始者である、増島六一郎の邸宅となっている時期もありました。その後昭和27年(1952)から昭和49年(1974)まではニッカウヰスキーの東京工場となり、水が綺麗だったことから井戸水をブレンドに使用し、「ニッカ池」の愛称でも親しまれていたそうです。

また昭和52年にはテレビ朝日が取得するなど、さまざま歴史の舞台となった「長府藩毛利家の上屋敷跡」は、現在の六本木ヒルズに「毛利庭園」として見事に再現されています。また樹齢約300年を超える大銀杏やソメイヨシノなども、慎重に移植作業がおこなわれ、従来の姿で残されています。大名庭園時代の名残りとして親しまれた「ニッカ池」は池底を固め永久保存をするために「埋土保存」をし、現在の池はその上につくられています。毛利庭園の敷地は4300㎡あり、心地よい散策が楽しめるよう、滝や渓流、小川なども配置されています。

また春のお花見シーズンやクリスマスには、池のほとりがライトアップされ、毎年工夫を凝らしたオブジェやイルミネーションなどで、幻想的な世界が広がります。六本木のショッピングや街歩きの合間の休息タイムにぜひ訪れてみてくださいね。

「衣食住」✕「遊び」六本木で叶えるハイグレードライフ

日本文化と海外文化が今も交差する街、六本木。ここでは当たり前の日常だけではなく、「非日常」すら隣り合わせにある毎日がドキドキ・ワクワクする環境が整っています。昼間はオフィスで仕事し、夜になると上階の部屋へ帰る。そんな生活も六本木なら叶えられます。

よく働き、よく遊び、ワンランク上のグルメを堪能し、よく寝る。六本木という洗練されたエリアで、すべてを叶えたい!そんな方にはピッタリのエリアと言えるでしょう。

そんな六本木でハイグレードな住まいをお探しの方には、家具家電付きのマンスリーマンションでお試し住みが便利です。夜の街をたっぷり楽しんで、空いた時間でしっかりと六本木の住み心地を確かめられるため、理想の住まいを見つけられますよ。生活必需品はすべて揃ってます。どうぞスーツケース1つでお越しください。