【歴史シリーズ】「品川」は海の中だった?風光明媚な御殿山と宿場町
東海道五十三次の最初の宿場町として江戸の人々の暮らしを支え、にぎわいの街として発展してきた品川。 時代を越え、電車や新幹線が網目のように走り、洗練されたオシャレで快適な街になった今でも、近代文化のすぐそばには、江戸の面影を残す場所がところどころに影を残しています。
今や高層ビルやタワーマンションが林立するこの街が、約150年ほど前まで、風光明媚な海岸が広がっていたことをご存知でしょうか? 海と宿場町、御殿山と外国公使館、さまざまな背景をもとに今の美しく、洗練された品川の街並みがつくりあげられているのです。 今回はそんな交通の要衝として現代の東京を支える品川周辺の歴史について振り返ってみたいと思います。
「品川」とはどんなところ?
現在の品川駅周辺は高層ビルやホテルが立ち並び、どちらかというとビジネス街や観光地といったイメージ。
でも少し歩けば、下町風情を残す昔ながらの商店街があったり、緑が溢れる公園や心地よい水辺もあったりと、都心とは思えないほどの穏やかな環境が整っているのも品川の魅力です。なかでも一番の魅力は、圧倒的な交通の利便性。JR山手線や新幹線の停車駅であることはもちろん、7つもの路線が乗り入れており、東京へ7分、渋谷へ12分、羽田空港へは最短14分でアクセスできます。
さらにバス路線も充実していて路線のないエリアへの移動や国内のその他都市部への移動にも便利。2027年には品川駅が始発駅となる「リニア中央新幹線」の開業も予定されているため、山梨、名古屋方面へのアクセスも大幅に短縮され、現在の「のぞみ」の約半分で移動できるようになるそうです。
最終的には大阪まで開通される予定のため、品川から大阪までが67分で結ばれることになり、ビジネスにプライベートにとこれから益々期待が高まるエリアと言えるでしょう。
「品川」の名前の由来とは
品川の歴史を探る前に、まずは「品川」の由来について掘り下げてみましょう。
「品川」という地名は目黒川河口を中心に発展した集落につけられた地名と言われており、名前の由来には所説あるようです。なかでも「目黒川がかつて「品川」と呼ばれていたから」という説がメジャーのように感じますが他にも興味深い由来がありましたのでいくつかご紹介します。
- 風光明媚な品良き土地だったため、高輪に対して品ヶ輪と名付けた説
- 鎧に用いる品革を染め出していた説
- 領主の品川氏から名付けられた説
などなど、さまざまにあるようです。
品川について調べてみると、他にも不思議な名称や謎が隠れています。次項からは、品川に残る不思議な名称やにぎわいの街「品川」の奥深い歴史について触れてみたいと思います。
なぜ?品川駅は「港区」で北品川駅は品川駅よりも「南」にあるワケ
品川駅は品川区ではなく、港区にあるのをご存知でしょうか?実はこれには所説あるのですが、一番有名なのがにぎわいの宿場町「品川宿」に駅を設けると「品川宿が廃れる」と住民や関係者からの反対運動があったため、高輪方面へずらしたという説です。
もう一方は鉄道の計画当時は「品川県」と呼ばれるエリアだったから。
ところが廃藩置県による再編成により品川県は芝区(後の港区)に組み込まれることになり、明治4年に消滅しました。結局駅は宿場として栄えていた「品川宿」よりも北側の開けた地域(当時の高輪南町)に開業します。歴史を紐解くと、反対運動の資料は残っておらず、当時の明治政府が開通を急いだため、用地買収を避けたという説が有力なようです。
ただ、煙をもくもくと立てて走る蒸気機関車が品川宿を走れば、確かに宿場町にとっては大損害になりそうです。また、新橋までの用地取得にも陸・海軍の施設があったことから反対を受け、用地取得の必要がない海を埋め立て築堤を造成し、線路を敷設したという経緯もあります。もしかしたら線路も駅も用地取得を優先して決められたのかもしれませんね。
また北品川駅については、「品川宿の北側にある駅」として「北品川駅」と名付けられたそうですよ。品川駅よりも「南」にあるのに「北品川」駅と呼ぶのには、そういった背景があるからなんですね。
江戸の宿場町で最も栄えた「品川宿」の魅力
第三の宿場町の誕生
品川宿は日本橋から大阪までをつなぐ東海道五十三次の第一宿で、磯の香りが漂う海沿いの宿場町として江戸四宿の中で最も発展した宿場町と言われています。品川宿は現在の京急本線の北品川駅から青物横丁駅にかけての旧東海道沿いにあり、もともとは目黒川を挟んで「北品川宿」と「南品川宿」の2宿で構成し、宿場の役務も両宿で分担していたそうです。
ところが江戸中期になると、江戸に近い北品川宿のさらに北側の高輪に向かって発展していきます。新たな場所に茶屋や旅籠屋(はたごや)など町屋ができ新町(しんまち)を形成していき、ついには、旅人や遊興客を奪われ隣り合っていた北品川宿を脅かす存在になっていったそうです。
実はこの頃、新町はまだ宿場町として正式に認められていなかったんです。それにもかかわらず、品川宿の歩行役(かちやく)つまり人間の背で荷客を運ぶ役割のほとんどを負担していたため、品川宿に加わることを道中奉行に願い出ます。
そして享保7年(享保1722)に許可がおり「歩行新宿(かちしんしゅく)」が追加され3つの宿場に分かれ、その後は3宿で宿役を分担していったそうです。
品川宿が庶民にも人気だった理由とは?
また品川宿が人気だった理由は、四季折々の楽しみ方ができる行楽地としての側面もあったようです。春は御殿山の桜、夏は品川浦の潮干狩り、秋は海晏寺(かいあんじ)の紅葉など、ちょっとした小旅行気分が味わえるのも品川宿の魅力です。江戸の支配下から2里(約8キロ)離れた立地だったことも庶民には開放的な気分にさせたのかもしれません。
一方で品川宿にはたくさんの旅籠屋があり、そこでは「飯盛り女」による売春が黙認されていたと言われています。そして北の吉原、南の品川宿と呼ばれ「岡場所」としても密かに人気を博していたのです。明和元年(1764)には500人ほどだった飯盛り女が、全盛期の天保時代(1830〜1840年頃)には1500人にも増えていたのだとか。
この時代、旅籠屋の中でも一番有名だったのが「土蔵相模(相模屋)」。高杉晋作、伊藤博文ら「維新の志士」が密儀を行った場所としても知られています。これについては、のちほど解説します。
東は海沿い、西側は田畑が広がっていた品川宿は、旅籠屋や茶屋などの飲食店を中心とし、海辺では海苔を採って商いをする者や職人なども多かったそうですよ。
今ではすっかり風景が変わってしまいましたが、このころから自然環境を生かしたエンターテイメントとそこへ集まる人々への商売で発展していた土地だったようです。
東京の定番デートスポット「お台場」は軍事施設だった?
お台場といえば、砂浜が広がるビーチやレインボーブリッジを望めるオシャレスポットとして人気を博しています。しかし本来はペリー来航後、海上の防衛を強化するため大砲の設置場所として建設されたものです。お台場海浜公園はその中の第3台場の跡地だったんです。
当初の計画では、南品川猟師町から深川洲崎にいたる海中に人工の島を第一から第十一まで11基つくり、大砲を設置するものでした。ところが、台場築造に経費がかかりすぎ財政難に陥ったため、着工できたのは6基、最終的に完成したのは5基のみでした。
埋め立てには御殿山から高輪泉岳寺にかけての山を切り崩した土砂が使用され、品川宿は土砂を運ぶための交通規制により大きな影響を受けたようです。
その後日本が開国することになり、砲台は使われることなくお台場海浜公園のある第3台場と第6台場以外は埋め立てや航路の安全を確保するために撤去されたそうです。現在第6台場は海上保全のため、立ち入りはできないものの、レインボーブリッジの遊歩道から見下ろすことができるそう。このような歴史の背景も感じながら、レインボーブリッジから見下ろしてみるのも面白いかもしれません。
幕末を迎えることになった「尊王攘夷運動」とは?
その頃は、ペリー来航により開国政策をとったものの、輸出による物資不足や流通構造の変化による物価高騰などで、人々は幕府に反感を抱き始めます。
そして幕府に反感を抱く尊王攘夷派(そんのうじょういは)による「桜田門外の変」が勃発。外国との貿易に関わる日本人商人の襲撃やアメリカの通訳官であるヒュースケン暗殺事件など、政局を揺るがす事件が多数起きていました。中でも「英国公使館焼き討ち事件」は尊王攘夷運動を象徴する事件の1つだったと言われています。
実は幕府が黙認した?!「英公使館焼き討ち事件」
御殿山の由来は、江戸時代に徳川家康の御殿があったことからその名が付けられているそうです。
ここは、江戸湾を望む絶景の高台で、かつては品川御殿があり、将軍の鷹狩や幕臣を招いた茶会など休憩所としても利用されていました。また江戸後期には桜の名所として知られるようになり、庶民の行楽地としても親しまれていたそうです。
文久元年(1861)の幕末期、そんな庶民の行楽地「御殿山」に幕府はアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの4ヵ国の公使館の建設を計画します。これには庶民も大反対し、品川宿役人からも以下のような反対意見書が出されていました。
- お台場と御殿山は陸と海から江戸を防衛する要となる土地で、火薬蔵もあることから、軍事的要衝の地であること
- 東の海側に人家が立ち並ぶ品川宿があり、陸のある西側に公使館があるのでは、非常時に避難できない
- 高台から東海道を通行する高貴な方々が見下ろされてしまう
- 品川宿に外国人が多く立ち入ることで武士と衝突する可能性がある
- 御殿山の美しい桜が失われる
このような理由で反対していたにも関わらず、公使館建設は推し進められてしまいます。最初に手掛けられたのが、イギリス公使館です。これまでの寺院を間借りするものとは違い、海沿いに建つ二階建ての洋館を計画しました。立派な木材を使用し、床は漆塗り、壁面には趣のある日本紙が施され、豪華絢爛。部屋はいずれも宮殿並みの広さを誇っていたそうです。
また外観は攘夷派の襲撃に備え、周囲に深い空堀と背の高い柵をめぐらし、跳ね橋も設置する用意周到さ。建設費は幕府持ちで4万ドルともいわれ、ほぼ完成していたそうです。そして1862(文久2)年、完成間近だったイギリス公使館が放火により全焼する事件が起きました。それが「英公使館焼き討ち事件」です。
襲撃の実行者は高杉晋作(たかすぎしんさく)、伊藤博文(いとうひろふみ)、井上馨(いのうえかおる)、久坂玄瑞(くさかげんすい)ら幕末維新の長州藩志士13名。彼らは文久2年12月12日の午前1時に品川宿の土蔵相模(相模屋)に集合したのち、空堀と柵を越え、イギリス公使館に忍び込み爆弾に火をつけて全焼させたそうです。
幕府は見てみぬふりをした?
これだけの事件を犯したにもかかわらず、彼らが処罰されたとの記録はありません。久坂玄瑞は焼き討ちから2年後、「禁門の変」で戦死し、高杉晋作は奇兵隊を結成し、倒幕を目指すものの、新しい世を見ることなく慶応3年(1867)に病死してしまいます。
伊藤博文と井上馨は幕末維新の激動を生き抜き、伊藤は初代内閣総理大臣になり、井上馨は内務大臣や大蔵大臣など要職を歴任したことから、共に「維新の元勲(げんくん)」としてその名を残しています。
実は、幕府としても江戸湾を見下ろす景勝地「御殿山」へ外国の公使館を設けることは内心望んでいなかったというのが真相のようです。というのも御殿山への公使館建設には官民および攘夷論者である孝明天皇からも激しい反対が起こっていたから。そこで幕府は公使館用地の放棄を諸外国に申し入れていたそうですが、ことごとく拒否されてしまい建設へと踏み切ったようです。
そうして朝廷と外国の板挟みに遭い、窮地に陥っていたところに起きたのが焼き討ち事件です。そのため、犯人の目星はおおよその見当はついていたものの、犯人捜しもそこそこに御殿山への公使館建設は頓挫したと言われています。それはまるで「幕府が裏で画策していたのでは?」と疑惑さえ抱かれるほど、絶妙なタイミングで起こったようです。そしてこれら事件当時のことをのちに伊藤博文が自慢話として暴露していたと言われています。
その後慶応3年(1867)江戸幕府が大政奉還をし、700年続いた武士の時代に終わりを告げます。そして1868年よりいよいよ明治時代の幕開けです。
日本初の駅「品川停車場」
明治5年(1872)9月12日、東京(新橋)〜品川〜横浜間を走る、日本初の鉄道が開業しました。その時の駅の1つが「品川停車場」です。
品川停車場は、東京(新橋)〜横浜間よりも前の同年5月7日に品川〜横浜間で仮開業しており、「品川停車場」と「横浜停車場」はともに日本で初めて開業した駅とされています。なぜ全線開通にならなかったのかというと、品川から新橋間は当時海だったため。埋め立てて道をつくってから線路を引くため、工事に時間がかかったことから、完成していた品川〜横浜間を先に開業したようです。
品川停車場は、品川宿出入口にあたる八ツ山橋のすぐそばにあり、開業当時は目の前に海が広がっていました。ちなみに横浜駅は現在の京浜東北線「桜木町駅」あたりに建設されていたそうです。
当時は電車ではなく、蒸気機関車でしたが、所要時間は現在の京浜東北線の品川~桜木町駅とほとんど変わらない35分ほどで移動できたそうですよ。この鉄道の敷設により、京浜工業地帯の発祥地となったのちには、多くの工場や住宅が建設され、街全体が急速に都市化していきます。
鉄道敷設後の「品川」の発展
開業当時の鉄道は新橋〜品川〜横浜をつなぐこの1本のみでしたが、その後次々と開業し、現在品川周辺には、7つもの路線が乗入れています。また品川駅の港南口エリアには、ソニー本社をはじめとするさまざまな企業のオフィスビルやタワーマンションなどが林立しています。これまでお話したとおり、このあたりは明治以前は海の中、とても今の光景からは想像できないほどです。
品川停車場から鉄道が敷かれたあとしばらくは、住宅や工場が集まるものの30年ほど前までは雑居ビルが目立つエリアだったそう。それが今のようにビジネス街として発展したのは、1990年代以降。とくに平成10年(1998)超高層大型複合ビル「品川インターシティ」のオープンや平成15年(2003)の東海道新幹線の開通などにより今の品川へと姿を変えていったそうです。
また2027年には「リニア中央新幹線」の開業も予定されており、まだまだこれからが楽しみな品川エリアです。
「品川」が選ばれている理由
海も空も地上も自在に操り暮らせるエリア
江戸の時代から交通の要衝として発展してきた品川。山や海はオフィスビルや高層マンションに、蒸気機関車は電車や新幹線へと大きく姿を変え、これから先も新しい未来へと進化し続けています。風光明媚な砂浜の姿はなくなったものの、美しい水辺の景色は健在です。
駅周辺の都会的な雰囲気とは裏腹に、旧東海道沿いを歩けば品川宿の面影残る商店街の存在も見受けられます。海も空も地上も自在に行き来できるのは、品川エリアだからこそのアドバンテージ。ビジネスにプライベートにと軽快なアクセスを求める方にとって、最高のエリアではないでしょうか?
品川といえばここ!
大森駅から大井町駅間にある2つの大森貝塚の「碑」。どちらが正解?
京浜東北線の大森駅から大井町駅間には、日本で初めて発掘された大森貝塚の「碑」が2つ存在します。1つは大田区にある縦書きの文字で掘られた「大森貝墟(おおもりかいきょ)の碑」、そしてもう1つが品川区にある横文字で掘られた「大森貝塚の碑」。
大森駅が開業した翌年の明治10年(1877)、アメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モース博士がこの東海鉄道を横浜から東京へ蒸気機関車で向かっていたところ、大森駅を出た線路際に縄文時代の遺跡を発見。モースが大森駅の線路脇から周辺を掘って調査したところ、この辺りに4,400〜2,300年ほど前の人々が暮らしていたことが分かりました。
大森貝塚発掘当時は、日本人もこの場所から貝殻が出土することはわかっていたものの、当時は遺跡という概念がなかったため、誰も発掘する人はいなかったそうです。モース博士がここで発見された貝塚や土器、動物の骨などを観察しまとめた本がきっかけで、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれるようになります。
この本は日本ではじめて発掘調査した内容をまとめた報告書であり、自然環境にも言及した総合的な貝塚研究の書として翻訳され「大森貝墟古物編」として今でも貴重な資料として高い評価を受けています。ところがモースが発掘した大森貝塚の正確な場所がわからなかったため、大田区と品川区がそれぞれに記念碑を造ったそうです。
しかしながら、昭和59年(1984)の調査で、品川区の大森貝塚遺跡庭園の場所である「大森貝塚の碑」が正確な場所だということがわかったとのことです。
「縄文式土器」の名付け親はモース博士
「縄文式土器」というと、どのような土器かご存知でしょうか?そうです、昔社会の授業で習った、網目の模様を施した土器を指します。実はこの「縄文式土器」という名前をつけたのが大森貝塚を発見したモース博士だったんです。モース博士が先ほどの大森貝塚の報告書に「cord marked pottery(縄目をつけられた土器)」と記したことによって、「縄文式土器」と呼ばれるようになったそうですよ。
モース博士の発見した大森貝塚は大森貝塚遺跡庭園として整備され、現在一般公開されています。縄文時代後期のものだと言われていて、関東の土器のみならず、東北地方との交易もあったとされています。ぜひ品川の歴史に興味をお持ちの方は訪れてみてくださいね。
縦横無尽にアクティブに「品川」を使いこなす
さまざまな歴史を背景に今も昔も観光名所として愛され続ける品川。この街なら、毎日忙しく飛び回るビジネスパーソンも、旅行好きのご夫婦も、地元と行き来したい学生さんも、「品川」✕「行きたい場所」へマルチにアクセスできますよ。水辺のある街で、便利に暮らしたい方にぜひオススメしたいエリアです。
そんな品川に暮らしてみたい方には、敷金不要・家具家電付きのマンスリーマンションでお試し住みはいかがですか?お休みの日に行きたいスポット巡りをしつつ、じっくりと引っ越し先を見つけるのにも便利です。生活必需品はすべて揃っているので、どうぞお気軽にカバン一つでお越しください。